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 阿久津政典営業課長(40)は、舘岩村役場に十五年間勤め、第三セクターのホテルに役場職員として派遣されてから、役場をやめてホテルの社員に転身した。
「地元リード型の第三セクターだからいいんですよ。少しぐらい高くても、品物は地元から買います。みんななぜ村に帰るかというと、村が好きだからです。そうやって集まった人たちでやるから、うまくいくんです。村が好きな人だけ帰ってきてほしいですね」
 スキー・ゲレンデのそばに、村が造成したペンション村がある。一本の通りに沿ってピカピカのペンションが九軒ならび、現在四軒が新築中である。東京、横浜、大阪から、ペンション経営者たちはそれぞれの夢を持って一家で移り住んだ。大阪で老人ホームの事務をやっていたという芝本久雄さん(40)は、ペンション「ムーミンのパパ」の経営者である。でてきた本人を見て、私はペンションの名前の由来を納得した。
「ペンション経営が夢だったんですよ。信州にいったら、あまりにペンションが多すぎる。ここは当時、開発されて五、六年でしょう。将来性に賭けたんです。ここの経営者はみんな子連れできますから、PTAを通して案外早く地域に溶け込めましたね。ぼくは稲刈りの手伝いにいきますよ。そのかわりに、雪降ろし手伝ってもらったり」
 ムーミンのパパは大阪靴(なまり)のとれない声でこういった。ペンション村は、この館岩村の一番新しい芽である。
 穴沢サキ子さん(24)は埼玉県の熊谷や栃木県の宇都宮で働き、この村にリターンして一年目である。若い彼女を前にして、君島君は冗談めかして私にいう。
「せっかく村に戻ってきたんだから、村に残ってほしいんだよな。男ががんばらないとな。男が悪いよ。俺でよかったらがんばるんだけどな」
 木賊(とくさ)温泉の看板娘を紹介してやるといわれ、私は君島君の後に従っていく。共同浴場があり、その隣には川辺の露天風呂に降りる階段がある。共同浴場の前にある平野物産店の平野美和さん(22)が君島君のいう木賊温泉の看板娘である。マツタケ、マイタケや、山菜きのこの農産物加工品を売る平野物産店には、看板娘が目的なのかどうか、ひっきりなしに客が出入りしている。
 美和さんは県内郡山の専門学校を一年で卒業するや、すぐ帰ってきた。そして、三年目である。なぜ帰ってきたのかと私が問うと、奥にいた祖父が大声でこう答えた。
「ここに人が足りなかったからだべ。専門学校終わったら帰る約束だったし」
「人が足りなくたって、帰ってこないって彼女がいったら、しょうがないでしょう」
 思わず私はこういったのだったが、彼女も祖父も笑っているばかりだ。そんなことを問うほうがおかしいといった様子なのである。冬は彼女はスキーのインストラクターをやっているという。スキーの先生だ。
「おじさん、これサルのコシカケかな」
 中年女性がキノコを持ってはいってきた。祖父は手に持とうともせずにいう。
「これは一種だけど違うんだ」
「山にはいって、マツタケ三本とってきた」
 別の女性が私に向かっていう。私は笑顔で相槌を打ち、タオルを持って露天風呂の階段を降りていく。川岸の岩窟に湯が引き込まれている。傍らの箱に服を脱ぎ、満員の客の間にやっと場所を見つけて私は湯に身体を沈める。湯の客は、もちろん男ばかりである。湯が熟すぎたら、すぐ横を流れる川にはいればいいと君島君にいわれていたが、なるほど熱い湯がこんこんと湧いていた。
 風呂から上がると、私たちは山菜やきのこ採りを専門のなりわいとしている人が多いという川衣(かわぎぬ)の集落にいき、祖母の代から三代豆腐づくりをしている橘正則さん(59)に会った。朝の五時から十時までは豆腐づくりをし、それから畑をまわったり、車で村に豆腐を売りあるいたりするのだ。畑は八反で、アカカブ、ウド、ソバ、カスミソウ、オミナエシなどをつくっているという。
「ここは海抜が高くて、水が冷たいから、集団転作をしたんだよ。本当は米をつくりたいんだけどな」
 水の中に沈んだ豆腐を見せてもらうと、いかにもうまそうだった。発泡スチロールの箱にいれれば宅配もできるといわれ、思わず私は注文してしまった。
 舘岩村の名物はイワナである。木賊の福本屋でイワナづくしの昼食をとっていると、スピーカーで歌謡曲を鳴らした軽四輪トラックが坂道を登ってきた。豆腐を売りにきた橘さんだった。
 私の前には、刺身、たたき、生の卵、白子、塩焼きや、可能なかぎりに工夫されたイワナ料理が豪華にならんでいた。
 水引の集落に着いた時にはすっかり日が暮れてしまった。文安年間(一四四四〜一四四八) 三人の猟師が清水に魅せられて住みついたのがはじまりとされる水引は、カヤ屋根の曲(まがり)屋(や)が軒を連ねている。私は五十嵐政一さん(64)の家を訪ねた夜のことを、たぶん一生覚えているだろう。居間に通されると、薪ストーブがたかれていた。ストーブの季節ですねと私がいうと、夏でも朝晩はつけてますといわれてしまった。私は三十五センチはある煤(すす)けたケヤキの床柱を見て、この曲屋は何年ぐらいたっているのかと尋ねる。
「うちの母親が生まれた時には曲屋だったっていうから、もう八十八年はたってんな」
「曲屋は暮らしやすいですか」
「暮らしやすくねえよ」
こういったのは奥さんの恵子(えいこ)さんへ(55)だ。
「草屋根をはいで、あげて、二階をいっぱいとるようにすっといいんだけど」
 五十嵐さんによると、屋根ふきかえのための職人は確保できたという。材料のカヤもある。費用は村が三分の二を負担するというのだが、街並を保存するのも大変な努力がいるものである。
 ともに激しい労働をした馬を家族同様に扱い、ひとつの屋根の下に暮らすのが曲屋である。だが昭和三十年過ぎから耕転機がとってかわり、馬のいない曲屋になってしまった。
 五十嵐さんは水田一町をつくっていたが、減反になった三反にリンドウと菊科のピンクスターの栽培をはじめた。温度差が激しいせいか、リンドウの色もよい。植えはじめて三年目の今年、はじめて出荷した。米価が下がって米の価値がなくなったので、徐々に他の作物に切り換えていくのだという。これが多くの農家の置かれた現実なのだが、そうやって誰も米をつくらなくなってしまう日のことを私は考えてしまったのである。
 厳しい現実の話をしながら、五十嵐さん夫妻はやさしそうに笑っている。もっと苦しいことが過去にいっぱいあったとでもいうのだろうか。笑いながら、奥さんはトチモチをストーブで焼いてくれた。かつてトチモチは常食にもしたが、飢饉のための非常食でもあった。一生懸命つくって十日はかかるという、気の遠くなるほどの手間をかけたものである。
「ストーブ燃さなくなったら、トチモチもできねえな。ストーブの灰で灰汁(あく)をかけ、この火でふかすんだから。山から木を伐(き)って薪(まき)をつくんなくなったら、トチモチはつくらんねえな」
 熱くて香ばしく、うまいトチモチだった。奥さんは笑いながらこんな話もしてくれた。
「トチの実がなった年は、ネズミもひききんねえもんな。今年は雨が多くて、ひとつもなってね。十年間は実で保存がきくから、これは去年の実だもんな。トチの木は建材のいい材料だべ。山の奥のほうから木を伐ってきて、水引に迫ってきたんだ。営林署がきかないんで、陳情をくりかえして、やっと伐るのをとめたんだもんな。昔なんか、木にナメコ植えたべや。朝からとって、午後二時頃になっても、とりきれねえんだもんな。飯食わなくても、腹減んねえもんな。山にはいれば、大人でふた抱えもあるトチの木がいっぱいあったけど、今は一本もねえ」
 話を聞けば聞くほど、うまいトチモチの味は濃く、そして甘苦くなってきた。トチモチを食べるのはこれがもう最後かと思ったほどだった。木は単なる建材ではなく、昔から紡ぎつづけてきた生活がまわりにあるのだ。この大系を文化というのである。
南会津・舘岩村のトチモチ

 日本人の風景の原点はどんなものだろうと考えたことがある。岩ばかりの小島に松が生えており、青い波が白く砕けてぶつかってくる。離れ島ではないことを示すために、遠くに淡く霞んだ陸地があり、上空をあおげば富士山などが聳(そぴ)え立っている。
 しかし、これは物見遊山の風景である。土を耕して幾千年と生きてきた私たちが、生活の根拠を置いた典型的な生活を、私は次のように思い浮かべるのだ。
 手入れのよい人工林でもよいし、秋になれば見事に紅葉する自然林でもよいのだが、背景には山がある。山は深くて、人の認識力も充分におよんでいるとはいえない。山は限りない恵みをくれるが、一歩踏み迷えば帰る道をなくす恐ろしい迷宮でもある。山中には人間の共同体とは違う、まったく別の世界が隠されている様子である。
 山から生まれた清冽な水が、急流をなして平地に流れてくる。もちろんその水は田畑をうるおすのだが、その前に流れだす勢いを利用して、水車小屋がある。これは米や麦を粉にする機械である。
 森林を抜けてきた水には緑の色が染み込んでいる。深い山に養われた水は、豪雨でも一気に流れず、日照りがつづいても水苔や樹木の根元に貯えられて少しずつ染みだし、一年中枯れることがない。この水を確保するためにも、山に関する碇は厳しくなければならない。樹を勝手に伐(き)ることなど許されないのである。
 山からでてきた水は水車を回してから、青々とした水田に流れていく。稲が豊かに実れば人の暮らしもよくなり、山を手厚く護ることもできる。農民たちが豊かになれば、物質の交易市場としての都市も繁栄するというわけだ。
 土を耕して生きてきた日本人の原風景とは、山の麓にある水車小屋のような気がする。もちろん水草小屋のまわりには水田がある。
 私がこんなことを考えたのは、館岩村にきたからである。山と平地とが境界を接する館岩村は、稲刈りの季節で穂は黄金に色づいてはいた。春や夏は水のあふれる緑なす田園地帯である。山の緑も濃くて深く、その中にいると溺れそうだ。山からは冷たいきれいな水がとどまることを知らずに流れつづけ、おまけに山麓には温泉まである。あまりにも懐かしさに満ち満ちた村なのである。
 旅人ならいざしらず、この懐かしさの感覚だけでは、人は暮らせない。
 この舘岩村がにわかに脚光を浴びたのは、国土庁の選んだ農村アメニティ・コンクールで一位になったからである。景観、伝統文化、都市との交流、住民の自主努力等を審査基準にし、日本一住みやすい村として舘岩村が選ばれた。この基準の中には、数値にはでにくいが、若者たちが暮らせるような未来があるということも含まれるだろう。
 館岩村は、昭和三十八年以後、数々の国の地域指定を受けている。豪雪地帯、振興山村、過疎地域、特別豪雪地帯と、こうならべてみると、「秘境」という言葉が連想されてくるほどだ。
 四方山に囲まれ、平均標高は六八三メートルもある高原地帯である。昭和四十年には四〇〇〇あった人口も五十年代にはいると三〇〇〇を割ってしまった。
 国勢調査によると五十五年は二六五四人だったのが、六十年には六十五人減の二五八九人、減少率二・五パーセントである。近隣の市長村では最も少ない。
 たった六十五人でも減少ではないかというのは、間違いである。都市の雑踏の中では六十五人などひとつかみの人数に過ぎないが、一人一人が大地に根を生やして立っている山間の過疎地では、この一人分の存在が大きい。一家族が転出していけば五人とか八人とかいう数になることも考えあわせれば、六十五人で食い止めたというべきである。
 自然の中で自然のへめぐりとともに生きていく農村では、自然と微妙なバランスをとった上にしか暮らしは成り立たない。自然を解読し、そこから一番暮らしやすい方法を築いてきたのである。
 当然その地域によって、暮らしの形態は変わってくる。同じ材料でも料理法が違うように、地域によって生活の形は変わってくる。自然とのそんな細やかな交渉と、暮らしの形とが、すなわち文化であり、伝統である。私たちは、そして私たちの祖先は、限りない恵みを与えてくれると同時に時に命や家を奪うはど狂暴になる自然と、絶妙にバランスを取り、自らを抑制して、生きてきたはずなのである。
 そんなしなやかで強い暮らしが、日本のあちらこちらにはまだ残っているはずなのだ。
 それらの精髄が、ともあれ、福島県南会津郡館岩村なのである。  浅草から東武電車に乗って三時間十五分で、会津高原駅に着く。舘岩村へは、ここから車で三十分かかる。
 会津高原駅には、館岩村教育委員会の君島政一君(30)が迎えにきてくれた。さっそく彼のコロナクーペで山越えにかかろうと走りだして間もなく、軽四輪トラックを認めて君島君はブレーキを踏んだ。運転席の若く美しい女性と、君島君は二言三言話した。
「うちのおっ母(かあ)だ」
 君島君は照れたようにしてこういった。尋ねれば、新婚五カ月というではないか。人生の花の期間に、彼らはいる。ちなみに、君島夫人は農協に勤めている。
 岐阜県の飛騨高山合掌造りの民家がならぶ白川村や、新潟県の秋山郷のある津南町など、名だたる村と張り合って、どちらかというと無名だった館岩村がアメニティ・コンクールで、第一回の大分県の湯布院につぎ第二回目に選ばれたのは何故なのかと、私は運転席の君島君に尋ねた。
「わかんねえな。県の人からアメニティ・コンクールってのがあるって知らされて、だしてみるべと思ったんだ。上司の人にいうと、書類が面倒臭せえっていうんで、俺が書いたんだ。決裁はもらったけど。最終審査の人がくる日も、町長があれ今日は何の日だべっていうんだから。もちろん決裁はもらってんのに」
 控え目な君島君から、私がやっと引きだした言葉なのである。アメニティ・コンクール第一位は、村を愛する青年のホームランだといえる。自分の暮らす村が日本一住みやすい村だということになれば、住んでいる人にも力が湧いてくるというものだろう。
 だが、このホームラン・バッターは、どこまでも控え目だ。東京で行われた表彰式にも出席しなかった。私がこんなことを書いただけで、当惑してしまうかもしれない。
 田島町から山を越えて、最初の集落が番屋である。その頃から街道の両側にコスモスの花が揺れている。旅から旅の暮らしを送っている私には、それだけでこの村はただものではないぞと思ってしまうのだ。
 君島君の新婚家庭のある岩下集落あたりから、稲架(はさ)掛けした稲が目立つようになった。八段もの高い稲架掛けである。最近では機械乾燥がさかんで、こんな風景もめったに見かけなくなってしまった。天日で乾燥した米は、お陽様のにおいがして何ともいわれないほどにうまいのだが……。
 椀や杓子(しゃもじ)などをつくるなりわいをしていた木地(きじ)師が、材料の入手困難や時代の流れのために定住を決意して開拓入植した高杖原(たかつえはら)を過ぎ、高原にはいると、風景は一変する。たかつえスキー場のあたりは、チロリアン・ビレッジと呼ばれ、ヨーロッパ風の白亜のホテルやペンションが立ちならぶ。
 都会のギャルが、テニス・ウェアに颯爽と身を包んでラケットを持ち、笑いさざめきながら芝生を歩いている。
「おめえ、言葉遣いまで変わっちゃったんべ。あかぬけちゃって、このお」
 君島君がホテルのフロントに立っている芳賀保幸君(26)に向かっていう。チロリアン・ビレッジで中心的存在である会津アストリアホテルは、第三セクターでできた。ホテルで働く人も、九十パーセント以上が地元の人である。ネクタイを締めブレザーを着た芳賀君が、コーヒーハウスのテーブルにきてくれた。JRがまだ国鉄と呼ばれていた六年前、芳賀君は川崎機関区から故郷にUターンしてきた。二十歳の時だった。長男だし、家も墓もあるから、いつかは帰りたいと思っていたそうだ。
「ホテルができないと、Uターンできたかどうかわからないなあ」
 このホテルができた昭和五十七年十二月頃、多くの若者がリターンしてきた。銀行、デパートガール、バスガイド、幼稚園、出版社などから、故郷の村の職場に転身をはかったのだ。
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