知床毘沙門堂縁起
 15年前、知布泊村の山荘にいる私のところに、七條史雄さんと佐野博さんがきたのがすべてのはじまりであった。しょっ中顔を出す二人ではあったが、二人が揃ってというのは珍しく、何やら真剣な表情なのであった。
 「この場所は昔小学校があったところで、小さいながら集落をなし、神社もあったんだ。小学校がなくなるのは仕方がないが、その神社までなくなってしまった。心の拠りどころとなるものが欲しくなったんだ。」
 二人の用件は私に神社を復興してもらいたいということであった。私ば小説家で、宗教関係者ではない。どうして私に神社復興を依頼するのか問うと、二人の答えはこのようだった。
 「何でもやってくれそうだから」
 そういわれたのなら、やるしかない。しかし、神社復興など、どうしたらいいのか正直のところわからなかった。そこで身近かにいる友人の福島泰樹さんに相談した。
 「どうせつくるなら、神社じゃなくて寺にしろ。うちの毘沙門天を分神したらいい」
 これが法華宗の日照山法昌寺福島泰樹住職の答えであった。法昌寺は東京下谷七福神の毘沙門天を祀る寺なのである。私も研究し、神仏習合の神社でもあり寺でもある三十番神堂がよいのではないかという結論に達した。三十番神とはそもそもが天台宗で起こった信仰で、国土を日本古来の神々が1ヶ月30日間交代して守護するということだ。毘沙門天は北方の守護神で、寺の本堂の須弥壇(しゅみだん)では鬼門である丑寅(うしとら)(北東)の位置に祀られている。四天王のうちの多聞天が毘沙門天で、法隆寺などでも多聞天は悪いものがはいってこないよう須弥壇の北東に祀ちれている。日本国土の丑寅の位置とは、知床半島ではないか。
 福島上人は知床にきてくださり、知布泊のどの場所にお堂をつくったらよいかを示してくださった。本尊の毘沙門天は斜里川河口で浚渫(しゅんせつ)工事している時に出てきたハルニレの材をもらい受け、法昌寺に縁のある仏師金城靖子さんも知床まで足を運んで材料として選定していただいた。伝教大師御作と伝えられる法昌寺の毘沙門天を参考にして金城さんによって彫刻された毘沙門天を、福島住職に魂をいれてもらい、私が抱いて飛行機で運んできた。
 お堂のほうは、みんなで板を切り、丸太を運んで建てた。細部は大工さんに仕上げてもらったが、まったくの手造りである。私も金槌を持って屋根に上がった。神社でもあるからどうしても鳥居が欲しいということで、佐野博さんの父上の佐野鉄工所の幾之介さんより寄進していただいた。
 毘沙門堂、通称知床毘沙門堂のお堂開きは、福島泰樹さんを導師とし、1995(平成7年)7月3日年前11時におこなわれた。法隆寺管長であった高田良信長老も参集してくださり、その御縁があってその後知床聖徳太子殿が建立された。杉のログハウスで、私も丸太を担いで組立てた。その後また法隆寺大野玄妙管長との御縁をいただき、多くの人の力が結集されるに至り、知床観音堂が落慶した。
 今は知床三堂と呼ばれる毘沙門堂と聖徳太子殿と観音堂とは、あれよあれよという間に流れるようにして出来ていったのである。不思議なことだと思うしかない。ある時、私は気づいた。
 法隆寺では「上宮化身観音菩薩」、つまり聖徳太子は観音菩薩の化身だとの信仰がある。また法華経のうちの、観音経として愛誦される「観世音菩薩普門品第二十五に」には、こう書かれている。
 「応(まさ)に毘沙門の身を以て度(すく)うことを得べき者には、即(すなわ)ち毘沙門の身を表して、為めに法を説くなり」
 観音菩薩は、毘沙門天を信仰する者には、毘沙門天の姿をして救うということだ。三堂ができたのだが、究極のところ、私たちは自然の流れのうちに観音様を祀っていたことになる。
 知床三堂はどうしなくてはならないという決まりはまったくない。その人それぞれの、あくまでもスローな信仰でよいと私は思っている。夏のよき日に、よき仲間が知床に集まれるのが幸せなのである。

2009年 知床毘沙門堂法要
2009年6月28日(日)