五郎叔父の旅館
 宇都宮から足尾にいくのに、二つの方法があった。一つは東北本線で小山までいき、そこで両毛線に乗り換えて桐生までいく。桐生で足尾線に乗る。全部国鉄でいくことができたのだが、今は足尾線は国鉄から、第三セクターわたらせ渓谷鉄道として蘇った。
 もう一つの方法は、日光線で日光までいき、東武バスに乗り換える。奥日光行きのバスはたくさんあったものの、足尾行きはめったにない。今は、日足トンネルを通ればよいので簡単なのだか、当時は粕尾(かすお)峠の険しい山道を越えていかねばならなかった。急坂を細かく折り返す山道を、バスはぐるぐる回転するように進んでいくと、やがてハゲ山が見え、谷合いに足尾の街があるのだった。
 乗物酔いをする私は、どうも粕尾峠越えか苦手だった。気分が悪くなり、もどしても平気なように袋を持っていく。この粕尾峠のことを考えると、足尾は遠いなと思ってしまうのだった。
 足尾はもともと私には母方の故郷で、日本でも有数の銅鉱山の街であった。我が一族は但馬国(兵庫県)の生野銀山から渡ってきたのである。足尾銅山のいわば開拓者で、飯場制度の中で組頭をやっていた。だが銅山は衰退していき、一族の多くは山を降りていった。
 祖父は男女十人兄弟で、上の姉はカナダに移民にいき、兄は旧満州で馬賊のようなことをやっていたと一族の伝聞であるか、病いを得て足尾に帰って死んだ。祖父は長男の立場になったものの、目が片方しか見えなくて、病弱だったので組を継ぐことはできず、宇都宮で茶や海苔の商売をはじめた。その長女が私の母である。
 足尾の家は祖父の妹が婿をとって継いだ。その息子である、私にとってまたいとこになる義理の叔父と、母の妹の、私にとって叔母が、結婚して足尾の家を継いでいた。子供の私は夏ともなると、内陸気候で暑い宇都宮から、山間地で冷涼な足尾に遊びにいったものである。
 娘を嫁にやっている祖母と私は、よく二人で足尾にいき、十日も十五日も泊まってきた。祖母も乗物酔いをする体質だった。母も同様だったので、乗物酔いの体質を私は祖母から受け継いだ。
 祖母と私が足尾にいく時は、粕尾峠越えのバスではなく、遠回りをする鉄道を選んだ。鉄道を走る汽車のほうが揺れは少なくて、酔うことは少ない。
 私はゆっくり走る鈍行列車の車窓から、景色を見ているのが好きだった。桐生まではトンネルもないから、窓を開け放しにしていても、蒸気機関車の吐く煙が車内にはいってくるということもなかった。
 このコースの問題は、時間が長くかかるので、途中で一泊しなければならないことであった。うまいことに桐生に親戚の旅館があったのだ。足尾から宇都宮へは夜遅くても汽車はあったのだが、宇都宮から足尾にいく時には足尾線の本数は少なかったから、どっちみち桐生に泊まらなければならなかったのである。
 その旅館には五郎叔父と呼んでいた人がいた。五郎というくらいだから、十人兄弟の祖父の五番目の子だ。今となってはこの五郎叔父の生涯については朦朧として雲をつかむようだが、幼かった私の記憶をたどってみることにする。
 五郎叔父は船員で、世界中を航海してまわっていたようである。山奥の谷間の町で生まれたわりには、祖父の兄弟たちは世界を舞台に動きまわっている。広島の医者に見染められて嫁にいき、原爆にあった人もいる。
 五郎叔父は船に乗っている間に調理を覚えてきて、宇都宮で洋食屋を開いた。途中はもうわからないのだが、どこかの料亭の仲居さんと結婚し、二人で桐生に落ち着いて旅館をはじめたということだ。
 桐生は足尾から出ていく人が、必ず寄る町である。衰退した足尾から桐生に移住する人もいた。足尾の人はゆかりのある五郎叔父を頼るようにして旅館に泊まったことであろう。
 五郎叔父は子供の私から見れば一風変わった風貌をしていた。髪は短く、鼻筋が通り、目元の涼しいいい男で、いつも紺色の着流しを着ていた。いろんなところを遍歴したあげく、最終的には仕方なく、旅館の親父におさまったという感じなのである。鉱山町の足尾はいろんな人が集まっては去っていき、五郎叔父のような遊び人の雰囲気を持つ人は逮和感もなく居ることができたのだろう。
 祖母と、五郎叔父夫妻がどんなことを話していたのか、私には記憶はない。旅館の部屋の窓を開けると、小さな遊園地があり、観覧車やメリーゴーランドやジェットコースターとはいえない電車などがあった。あまりに近くなので日常的にすぎたのか、大人たちは誰も私をそれらの遊具に乗せてくれようとはしなかった。名前も全体の立住居も忘れてしまったその小さな旅館が私にははじめて泊まった旅館なのであった。

『遊歩人』2008年11月号

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