滅びゆくもの
 奈良の法隆寺の講演会が、毎年四月の中頃に上野の東京国立博物館で開催され、その後近くのホテルで懇親会が行われる。終了後法隆寺の人たちの宿舎になった赤坂のホテルに移動し、近所の料理屋に集まって親しい人たちで二次会の一杯をやるのが、ここ数年の慣例になっている。
 その席上で、大野玄妙管長が私に新しい万年筆をくださった。もう使うこともないからというのだ。家族もまわりでも万年筆を使う人がいなくなり、見渡すかぎりもう私しかいないということなのである。
 万年筆で原稿を書く私はありがたくいただき、この原稿をはじめての万年筆で書きはじめた。まだ手に馴染んでいないのだが、使い込んでいくうち、ペン先からすらすらと言葉が出てくるようになる。万年筆は物書きの私の道具なのである。
 ついで春の連休がはじまる土曜日、私は群馬県蚕糸振興協会の「日本絹の里」十周年記念の講演に呼ばれた。私は「きもの紀行」という本を書き、三年前取材でお世話になった縁がある。今は前橋市になった旧大胡町の養蚕農家は、昭和四十年には六百戸をくだらず、三年前は三十八戸で、今は二十戸になったということだ。
 製糸工場も全国で二箇所に減り、そのうちの一つが群馬県にある。そこで関東以南のマユを一手に扱っているとのことだ。結局安価な中国産に敗れてしまったのだ。
 万年筆やマユなど滅びゆくものに身を寄せる気持ちで、その足でわたらせ渓谷鉄道に乗り、足尾にいった。かつて足尾線といった第三セクターのこの鉄道も、経営が苦しいらしい。翌朝、仲間たちと十三年間春につづけている植林に参加した。そこには二日間で千五百五十人もの人が集まった。

日本経済新聞(夕刊)2008年5月7日(水)

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