土の道場
 麿赤兒は私達のいる天と地の間に生きて存在してくれているだけでいいと、私は思っている。
 映画『裸の夏』を見て、まったく素人の若者をたった一週間で舞踏家に仕立てる麿さんの教育者としての才能を改めて感じ、彼が長いこと舞踏の地平を切り開きつづけている理由がよくわかった。彼のまわりには魂の中に何かを求めている若者が多数、いつも集まっている。その若者のエネルギーを舞踏に変換していくのが、麿さんの類い稀れなエネルギーなのだと、私には改めて深く理解できたのである。私は舞踏家を志したわけではなかったが、まわりにいる若者の一人であった。
 私が麿さんとはじめて会ったのは、麿さんが唐十郎の状況劇場を1971年に去り、翌年に大駱駝艦を立ち上げるまでの、いわば浪人の時機であった。私も小説を書こうとしていたのだがうまくいかず、大学を卒業しても夢見るようにして定職につかないで、なんとなくうろうろしていた時機であった。
 私たちの中心に彦由常宏という男がいた。学生運動が破れて大学に戻れず、仲間たちと時代の浪人をしていたのだ。阿佐ヶ谷の須賀神社で夜になると木刀を持って剣道の稽古をした。いつもパトカーが警護についてくれていた。彦さんに誘われたのだろう、神社境内の土の道場に麿さんが飄然と現れ、木の下の暗がりで黙々と木刀を振っていたのだ。
 「からだがありや いいんだよ」
 麿さんのこの声は、当時から響き渡っていたのである。あれからの麿さんとの思い出は、数限りもない。彦さんたちが早稲田大学の大隈講堂から敵対するセクトの占拠する校舎にスタンウェイのピアノを持ち出し、ジャズコンサートを開いたことがあった。演奏者は山下洋輔トリオだ。その時、東京12チャンネルのディレクターだった田原総一郎が録音したテープが見つかり、夜にみんなが集まって彦さんのアパートで聴いた。素晴らしい演奏なのでレコードにしようと決まり、麿さんを中心にして、「麿プロ」という名前だけをつくった。「ダンシング古事記」が、そのに時決まったレコード名だ。
 「麿プロ」の事務所は最初、新婚の私のアパートに置くことにしたのだが、それはあんまりなので近所に六畳一間のアパートを見つけた。そこに私は5年間ほど一回も干さずに使っていた蒲団を、捨てるよりは誰かが使えばよいと運んでおいた。その蒲団がなくなってしまったのだ。貧乏な自分よりもっと貧乏な人が使っているのだからと思えば、腹も立たなかった。後日、近所の麿さんの家に遊びにいき、私は見てはならないものを見た。あの蒲団が干してあったのだ。私は見て見ぬふりをしながら、心の中は妙に嬉しかった。
 麿さんも彦さんも私も、思い出しただけで笑えるほどの貧乏であった。だが麿さんといると楽しくて仕方がない。今ではしょっ中会うというわけではないが、会えば間にある時間は一瞬にして消える。世間からは愚行とも見える楽しい時間が、たちまち甦ってくる。

大駱駝艦 映画「裸の夏」 テレコムスタッフ 2008年1月18日

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