知床の夏の1日

 知床に毘沙門堂を建てて13年目の夏である。6月の最終日曜日と決めた例祭には、年々新しい人も加わり、今年は300名を超える人々が集まった。
 地元の人たちの準備も流れるように進んで、料理が山のように盛り上げられるのもいつものことだ。朝の3時半頃から牛の脚を焼きはじめ、法要が終わる午後1時までみんな待ち切れない様子である。法要がすむや、生ビールと土地の産物とで野外パーティとなる。  少し前まで曇っていて、今にも降りだしそうな空模様だったのだが、いつの間にか雲がなくなって太陽が輝き出した。晴れたら晴れたで、暑くなる。大きなテントで日陰をつくり、影の中で飲んだり食べたりする。
 このパーティに先立って行う三堂の法要が、もちろん最も重要なことである。最初にできたのが毘沙門堂である。その場所は開拓地の小学校跡地で、神社もあった。幾時代かが流れて貧乏などもし、いつの間にか神社が消滅してしまった。その神社を復活したいと私は相談を受けた。私は小説家で、宗教家ではない。何故私に相談するのかと問うと、なんでもやってくれそうだからという答えであった。
 私にしても、神社を復活するのにどうしたらよいのかわからない。そこで、東京下谷の友人の日照山法昌寺住職福島泰樹和尚に相談をした。和尚の答えはこうであった。
「それはお前、寺にしろ」
 相談した相手がお坊さんであったから、このように言われたのだ。法昌寺は東京下谷七福神のうち毘沙門天のお寺で、毘沙門天を分神していただくことになった。そのとき、斜里川を淫諜(しゅんせつ)していて、上流から流したハルニレの樹木が沈んでいた。その沈木をもらいうけ、私が東京に運んでいって仏師に毘沙門天を彫ってもらい、法昌寺で魂をいれてもらった。お堂のほうはみんなでつくった。私も金槌を持って屋根に上がったのである。
 こうしてお堂ができたのが13年前である。この時、奈良法隆寺管長がきてくださり、代が変わっても一度も休まずにきてくださる。輪が広がっていき法昌寺住職、中宮寺御門跡、金閣寺と銀閣寺の住職である相国寺管長、清水寺管長、聖議院御門跡、永観堂禅林寺法主、興福寺管長と、その行者(あんじゃ)の僧たちがきてくださる。
 これは知床の魅力によってなのだが、驚くべき高僧のお姿が見られるのが、知床毘沙門祭の不思議だ。
 夏の1日、山中の質素なお堂の前は花が咲いたような華やかさになる。今年は聖護院から山伏のお坊さんたちがきてくださり、法要のはじめと終わりに法螺貝を吹いてくださった。来年は不動明王堂を建て、火渡りをしようかということを話している。
 地元にとっては、人で賑わう町おこしになっている。そもそも斜里町は知床のある町で、世界自然遺産のあるところだ。そうでなくとも夏は人で賑わうのだが、この知床毘沙門堂例祭は私にはことに楽しい。
 翌日、奥地の番屋に海上安全の祈願にいく。集まったお坊さんたちのほとんどが番屋にいくのである。漁師たちの一番の願いは海上安全で、大漁満足はその次である。
 この13年間、事故は起こっていない。漁のほうは、不漁ではないが大漁でもなかった。それがこの3年ほどは、サケとマスの空前の大漁である。借金を返し、新造船をつくり、定置網も取り換えた。根本的な原因は海流にあり、オホーツク海はおおむねよいのであるが、何か霊験があるというような感じもしている。
 番屋の漁師たちは気持ちよくもてなしてくれる。早朝からウニむきをして、キンキの煮つけや、トキシラズの塩焼きや刺身、またカレイの刺身など、山のように用意して待っていてくれるのである。

100万人のふるさと 2007 夏

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