四人の孫

 いつの間にやらとしかいいようがないのだが、私には孫が四人いる。
 札幌に住んでいる長男が、子供を三人つくったのである。だが私は孫とは今まで数えるほどしか会っていない。妻のほうが私より多い回数会っているせいなのか、孫からはしよっ中電話がかかってくる。日に何遍もかかってくることがある。私が電話にでた時には話をするにせよ、相手をするのはもっぱら妻のほうである。誕生日やらクリスマスやらにプレゼントを送っているようだが、私をのぞいてどうやら妻と孫たちとで共和国ができている様子である。
 そばに住んでいるわけではないので、じいじいとしては影響力をふるいようがない。それなりに元気に育ってくれればよいと思っている。
 長女夫婦は歩いて六分間ほどのところに住んでいる。約二ヵ月前に、娘は赤ん坊を産んだ。男の子だということは、前からわかっていた。男か女かどちらが産まれるかという緊張感は、最近の出産にはない。長女は女の子が欲しかったらしいが、そこまではどうにもならない。長女と妻の態度によって、男の価値が暴落していることを、私は改めて知ったしだいである。
 私からすれば、昨日生まれたような娘が母親になるのかという、あやういような不安があった。しかし、女というものは強い。おなかが大きくなるにつれ、どんどん母親らしくなってくる。女同士で妻とは親密に連絡をとりあっているようで、私はなんとなく疎(うと)んじられていた。どうも男親とはつまらないものである。
 産院もすぐそばにあった。つわりが起こったらどうするとか、妻とは細々と連絡をとりあう。妻はよく娘のマンションにいったりもしていた。娘の夫も産気づいた娘を車で産院に連れていくというようなことしかできない。
 「お産に立ち会ったら、絶対に気絶するから、こないでいいよ」
 娘にこんなふうにいわれ、夫は立ち会わなかったようだ。いろんな理屈はあるだろうが、熟練の専門家にまかせ、無事に出産した。本人はあんな苦しいことは二度と絶対にしないと出産の時には思ったが、赤ちゃんの顔を見たら忘れたといっていた。この忘れられるということが、女の強さなのである。苦しみは忘れたほうがよいに決まっている。
 私は脳出血で意識不明となった母を抱えている。回復することは皆無な母を、時折私は見舞いに宇都宮にいく。完全看護の病院だから、声をかけても反応はなく、前に立ってもこちらを見ているかどうかもわからない母の手を、私はただ握ってくるだけである。  その母に四人目の孫が生まれたことを伝えたが、聞こえたというそぶりはまったくない。それでも話しかけるのが息子のつとめだと思っている。
 去っていこうとする人がいれば、やってくる人もいる。それがこの世の仕組みなのだ。やがて私にも去っていく番がくる。その時には勇気を持ち、黙って向こう側にいこうと思うのだ。
 赤ん坊は皺がなくて、すべすべして、少し光っていて、美しい。しかし、皺だらけで苦悶の表情を浮かべ、死の床に横たわる母も、その生涯を考えれば美しいと思う。昔を思い出しては、私は母の姿を眺めながら涙ぐむのである。
 今日、娘は生まれて二ヵ月の赤ん坊を連れ、夫の運転する車で宇都宮にいった。宇都宮には昔から住んでいた家があり、そこに二泊して気晴らしをしてくるという。出産と子育てで産院にいく以外には家から出ることはできなかったが、赤ん坊が遠出をできるくらいに育ったから出かけるのである。当然のことながら、娘にとっては祖母の見舞いに、生まれたばかりの子供を連れていく。それが今日なのだ。その報告を私はまだ受けていないのだが、静かな病室の様子は想像がつく。母も赤ん坊も自分の中にお互いの記憶を刻むことはできないが、去っていしくものとやってきたものとが出会う劇的な場になるはずである。きっとそれはよい瞬間なのだ。
 これからも赤ん坊はぐんぐん育っていくだろう。たった二ヵ月見てきただけだが、そうしょっ中会うわけでもないにせよ、会うたびに育っている。
 私は孫を自分の思う通りに育てようとはさらさら思わない。育つように育てばよいと思っている。もっというなら、この世に存在していてくれればよいと願っている。そして、孫が生きていく時代が、戦争や災害などに苦しむことのないようにと望むばかりだ。  食事をさせたり、学校にいれたりするのは、親の仕事だ。もちろん背後からの支援はするにせよ、じいじいの思いを代弁させたり、自分のできなかったことをしてもらおうなどとは、さらさら願わない。

オール讀物2007年6月号