「鉱毒悲歌」の頃
 たまたま国会議員という仕事についているのだが、谷博之さんは古い友人である。私は学生時代から小説を書いて生きていきたいとの夢を持ち、まともに就職もしないでその日その日をやってきた。しかし、生活のことで行き詰まり、いろいろな人に相談をすると、みなに同じことをいわれた。
 「お前がちゃんとした仕事につけばいいのだ」
 それもそのとおりだなと思い、私は故郷の宇都宮に帰り、宇都宮市役所で働くことになった。33年ほど前のことである。もちろんその当時、小説を書くという夢を捨てたわけではなかった。公務員の仕事をしながらも、自分の居場所はここではないという思いが強かった。
 そんな時に谷博之さんと出会った。詳しいことは忘れてしまったのだが、足尾鉱毒事件のことを研究するサークルをつくろうという谷さんの呼びかけが、新聞にのったのである。さっそく私は集まりの場所に出かけていき、その場で「谷中村強制破壊を考える会」が結成された。そして、会の目的を、その時にしか撮れない記録映画をつくろうということに決めたのだ。
 当時は田中正造の秘書をしていた嶋田宗三(そうぞう)さんなどが御存命で、昔のことを生き生きと語る人がいた。また足尾銅山製錬所なども操業中だったのである。
 会をつくったところで、資金があるわけではない。当時国会議員の秘書をしていた谷さんが自分の給料から出したのだと今は思うのだが、谷さんがどこからかお金を持ってくると、その分で買えるだけの16ミリフィルムを買って撮影した。そうやって撮った映画が「鉱毒悲歌」である。
 私のところにもビデオ化した作品が一本だけ残っている。確かに記録映画が一本撮られたことは間違いがないのである。若くて夢だけはあるが、実際にはどうしてよいかわからなかったあの頃を、私は谷さんと会うたび思い出す。
絵:山中桃子
BIOS Vol.39 05.02.20