大谷の干手観音
 子供の頃の払は、よく大谷寺(おおやじ)の大谷観音に遠足などでいった。大人になっても、私は故郷宇郡宮の大谷寺をおとずれ、大谷観音にお参りをする。
 大谷観音は干手観音で、大谷石の崖の面に彫りつけられている。日本でほ珍しい石窟寺院の雰囲気かある。インドのアジャンタや、中国の敦煌(とんこう)や雲岡(うんこう)を通ってきて、日本では法隆寺に至る、はっきりとした仏の道がある。法隆寺はもちろん石窟寺院ではないにせよ、山石を彫りつづけてその行為を修行とした古代の仏僧たちの、その息吹きが大谷観音に伝わっているように思える。
 大谷寺本尊干手観音は平安時代の初期、弘仁元(八一○)年、弘法大師空海の作と伝えられる。弘法大師伝説は全国にあるが、弘法大師は東国にきたという事実はないから、別の僧の事蹟である。平安時代にほ各地に遊行憎がいて、霊蹟をつくっていったのである。
 大谷観音のあるところは大谷といい、大谷石の石切り場の多いところである。切り立つ大台石の凝灰岩の山か露出し、山水画に描かれるような風景をこしらえている。だがそもそもは荒針という地名のところである。
荒針郷の−里余りの間は、五丈十丈の岩かあちらこちらに立っていて、屏風を立てたようである。岩と岩の問の土地は広く平らで、大谷と呼ばれていた。岩盤の下から水が湧き出し、川となって、まさに自然の要害であった。この中に毒蛇が住んで、時々毒水を流し出していた。鳥獣虫魚かこれに触れれば、たちまち死んだ。そのために地獄谷と呼ばれていたのである。
 人間がこの水に触れると、瘡ができ、はなはだしきは死に至った。五穀は枯れ、草木はしぼみ、人々は苦しんでいた。この地を捨てようという気持ちに、人々はなっていたのであった。
 その時に、弘法大師が巡錫してきたとの伝説かある。この谷に毒蛇がいて毒を流すので人々が困りはてていると聞いた弘法大師は、降伏の秘法をもって里人を救おうとの誓願を立て、毒蛇の谷にはいっていった。
 弘法大師がその谷からでてきたのは、十余日の後であっに。毒蛇を退治して、この地の災いを除いたと、大師は村人にいって去った。荒針の里人はこれを聞いて谷にはいると、高い岩山に干手観音か彫りつけてあり、脇侍に不動明王と毘沙門天が刻んである。「三尊の光明、赫やくとして、山谷の一面に金色の如し」と、縁起には書かれている。
 もちろんこの物語は、どこまで事実であるかわからない。しかし、事実かどうかなどは問題ではないのである。いつの時代かに修行者がここで尊い修行をして、干手観音を彫ったのである。そのことには間違いはない。そのことで、多くの人が救われたのに違いない。その観世音菩薩像が干二百年の時を経て今もその岩山にあることが、奇蹟のように思える。
 大谷観音は坂東十九番観音霊場の札所である。