はじめての海
 母が毎晩寝床にはいったときにいう言葉を、私はいつでも目に甦らせることができる。それはこんなふうであった。
「ああ、寝るのが極楽。寝るのが極楽」
一日働いて、ようやく休日がとれたと思ったら、就寝の時間ということである。床にはいり、目をつぶってしまえば、心から休まるということなのである。
 私が子どもの頃には、旅行などにはめったにいかなかった。せいぜいが近くの温泉地に日帰りをするくらいであった。ごくたまにのことであるが、一泊ぐらいの旅をすることもあった。子どもの私は、珍しいし、家以外のところで眠るなど、特別のことであった。旅行が終り、私は家に帰ってしまうのが残念でならないのであるが、父も母も鍵を開けてなかにはいるなり、そろってこういうのである。
「ああ、家が極楽。家が極楽」
 自分が住んでいる家が最高だというのである。慣れたところが安心だというのであろうが、そのことが子どもの私にはどうしても理解できない。家以外のところ、親戚の家でもなく、旅館に泊まるなど最高のことではないだろうか。
 いまは多くの人が旅によくでる。旅への誘惑はいたるところにあり、覚悟などするわけでもなく簡単に旅にでる。しかし、私の親から上の世代の人は、めったに旅に出ることはなかった。旅は人生にとって大きな出来事であった。覚悟もなく旅にでることは考えられなかったのである。
 昔は旅の計画があるにしても、半年も前から予定は決まっていて、ずいぶんと早くから準備をしたものである。荷物をたくさん持っていき、日帰りの遠足でさえ菓子をあれこれと選んで持っていった。旅は人生のうちでも重大な出来事であったのだ。
 私が子どもの頃にした旅で、最も印象に残っているのは、足尾にいる叔父夫婦とした旅であった。私の母と叔父とは従兄で、叔母は妹である。従兄同士で結婚したという、私から見れば血の近い親戚である。
 そもそもが足尾の坑夫の家系であったが、足尾銅山が閉山した後は、足尾にとどまって古物店をやっていた。山の中の足尾から見れは平地の宇都宮で生まれ育った叔母は、結核を発病して長い療養生活を送っていた。その叔母の病いが全快し、一夏を茨城県大洗海岸で過ごすことになった。叔母夫婦には幸子という娘がいるのだが、まだ三歳ぐらいの幼児で、せっかく海にいくのでもったいないから私も連れていってくれるということになった。
 栃木県は海のない県である。小学一年生の私は、それまで海を見たことがなかった。父や母といく旅行は、那須や塩原の温泉地が多かったのである。
 おそらく宇都宮駅に近い叔母の実家に集まり、そこから出発したのであろう。宇都宮駅から東北本線で小山までいき、水戸線に乗り換えて水戸までいく。水戸で私と幸子が不安そうにベンチに腰かけている写真が残っている。宇都宮と水戸は直線距離でおよそ七〇キロで、いまの感覚なら車でひと走りなのだが、当時は蒸気機関車で遠かった。
 水戸から大洗まではバスで、いく。バスが走っていくにつれ、海のにおいがしてくる。それが気持ちのよいことなのである。もっとも当時の私は海のなんたるかを知らなかったのだから、海のにおいもわからなかったはずである。
 大洗海岸の磯は岩で、波は荒く、波が岩に砕けて空高くに波しぶきが上がる。大洗という名前で、そこがどんなところかわかる。その荒磯に面したところに、旅館がならんでいた。部屋の窓を開けると、海を一望することができた。
 青い海は、生きて動いていた。光を底まで吸っていた。あんなに大きなものを、私ははじめて見たのである。山は暮らしのなかから見ることができたのであるが、海については私は小学一年生のときにはじめて見たのであった。本当に、あんなにも大きなものははじめてだった。
 しかも、呼吸をするようにうねり、生きているのである。はじめて海を見た時の衝撃を、私はいまでもうずくように思い出すことができる。
 病み上がりの叔母は白い顔をしていて、もちろん海で泳ぐわけではなく、控えめに静かにしていた。叔母の態度が、エネルギーに満ちた海の様子とは、まことに対照的であった。叔父とすれば、この庄倒的な自然の力によって、叔母のやっかいな病気をことごとく払いたかったのだろう。
 大洗海岸のいまの旅館のあるあたりは、まるで砂丘でも形成されているかのように、盛り上がるほどに砂があった。太陽の熱によって灼かれた砂は熱くて、ござを敷いたところから波打ち際に向かって意を決して駆けていくのだが、足の裏が熱くて、あわてて駆け戻っていく。
 海は恐ろしいといわれていたし、自分でもそのように感じていたので、もちろん浅いところでしか遊ばなかった。それでも足首をなめる波に、海の中に引っぱり込まれるような気がして恐ろしかった。波の上では、浮き輪にのってたくさんの人か遊んでいた。
 ふと目を上げると、青空と触れあうあたりの遠くに水平線が見えた。水平線はくっきりとした光の線なのだが、その手前の海は生きて勤いている。私は波打ち際にしゃがみ、いつまでも海を見ていた。
 はじめての海は、私にとってはあまりにも鮮烈であった。あの海がいまでも私の精神のなかにあり、私に海においでと呼びかけをなしているようにも感じる。あの海はいままで見たうちで最も明るく、最も大きく、最も美しいのであった。
メデカルクラーク(財)日本医療教育財団2003年1月号