2002年10月

飛行機の大変さ

 今年の夏の沖縄行きは、一勝二敗で思った。沖縄に三度いき、二度台風にあって飛行機が欠便となり、帰るに難儀したのである。
 一度は大城立裕さんの全集発刊記念パーティーで台風に直撃され、帰るべき日の飛行機は終日全便欠航になった。その翌日は名古屋で講演があり、予約センターには電話さえも通じず、札幌にかけてやっと通じた。もちろん予約などとてもとることはできない。
 とにかく動き出さなけれは何も始まらないと、那覇空港にでかけた.七月のちょうど観光シーズンとあって、空港のロビーは難民化していた。とりあえす空席待ちをしたのだが、もらった番号は七百五十何番で、絶望的であった。
 名古屋での講演会主催者に、もうどうにもならなくなったとの電話をいれた。それまでも二度ほど電話をいれ、状況は伝えておいた。医科大学大講堂での授業ともなる講演で、穴をあければそれなりのダメージがみんなにあるのだが、どうにもならない。電話口では先方のエージエントも深刻そうに沈黙してしまった。私は台風の被害者なのだが、こうなると加害者にもなってしまう。
「うちは旅行エージェントもやっていますから、とにかく切符をとるために努力してみます。そちらでも努力してください。」
 担当者は焦った様子でいう。私のほうでも沖縄の知り合いに電話をしまくったのだが、どうなるものでもなくなった。七百五十番代の空席持ちの番号を持ち、臨時便がでないかと期待しつつ、難民の群の中にいるのである。名古屋での講演はもう絶対に無理だろうとあきらめていた。
 その時携帯電話が鳴り、とると、先方かちの声が響いてきた。
「関西空港の予約が取れました。今からぎりぎりで間に合いますから、急いでカウンターに行ってください。」
 私は走っていき、関西空港行きの飛行機に飛び乗った。狐につままれたような思いとはこのことである。もちろん機内は満席であった。関西空港から電車で新大阪にいき、そこから新幹線に乗り、名古屋駅に降りると初めて見る担当者の顔があった。
「旅行代理店の担当者といっしょに、私もずっとコンピューターのモニターを眺めてました。空きが出たので、すぐとったんです。 0コンマ何秒遅くても、他に取られてしまいます」
 担当者はこういった。講演は一時間遅れでなんとか開くことができた。
 同じ七月に、喜納昌吉のコンサートに呼ばれ、一泊で那覇に行ってきた。この時はなんともなかった。ただただ暑いとの印象が残った。喜納さんと夜明け近くまで飲み、予定通りに帰ってきた。
 三度目は連載している着物雑誌の取材で、那覇に日帰りでいってきた。午前九時羽田発の飛行機で飛び、取材をすませ、その日のうちに帰るというスケジュールである。
 那覇は九月未だというのに、真夏の日差しであった。三十度はとうに越えているであろう。那覇市内は相変わらず渋滞がすさまじいのであるが、昼食の時間には紅型(びんがた)の工房につき、取材相手の女性作家と近くの食堂でトーフチャンプル定食を食べた。それにユシドーフ汁である。
 取材は順調である。だが帰るのは不安であった。空港に着いた時に碓かめておいたことによると、十四時以後の東京行きの便は天候を見てから運行を決めるということだった。取材をしにきたのだから仕事をする前に帰るわけにはいかず、夕方に近くなるにつれ婦りにくくなる。私は仕事の都合で明日の昼までに東京に帰らなければならない。台風は足が速いのでその夜のうちた東京を通り過ぎてしまうだろうから、明日の午前に帰ればよいということに肚を決めなければならないかもしれなかった。
「早く動き出した方がいいですよ。もう大変ですから」
 紅型作家にいわれた。彼女は島の苦しみを痛いほどに知っているのだ。私たちは編集者とカメラマンとカメラマン助手と私の四人であった。私以外は前日のうちに那覇に入っていた。編集者が那覇空港にはどうしても電話がつながらないという。それなら札幌か名古屋に電話をかければいいと私はいう。名古屋につながったが、今度は十六時以降の東京行きはすへて欠航というのだった。
「それなら名古屋便をとって」
 困った表情の編集者に私はいう。彼女とは十年来この連載をやっているのだ。名古屋行きの便は四名ぷん席がとれた。これもたちまち埋まってしまうだろう。 東京直撃の台風の影響の少ない名古屋には飛ぶことができたが、新幹線は乱れ、一時間遅れの牛前一時に東京駅に着いたのであった。
戻る