2002年3月

「歌舞伎の稽古」

歌舞伎「道元の月」の台本を書くのは二年もかかったのに、稽古はたった四日間しかない。歌舞伎座では朝から夜まで七つも八つもある出しものを、毎月四日間の稽古で仕上げてしまう。特別のことは何もないのであった。
 二月二十七日までは歌舞伎座は二月の公演に使われているので、二十七日の夜の地下稽古場での台本の読みあわせからはじまる。二月は二十八日しかない。三月一日、二日と稽古をつづけ、三月三日の午前十一時にはもう幕が開くのだ。もちろんこんなことができるのは、歌舞伎役者が全員高度なプロであり、古典などは演出家を立てなくても、役者同士の簡単な打ち合わせだけで事足りる。もちろん科白は頭にはいっている。
 私が書いた「道元の月」は新作で、科白は誰も知らない。台本作者としても、こんな長い科白をよく覚えられるものだなと感心しながら書くのである。書くことはできるが、暗記することなどとてもできない。できるのがプロというものなのだ。
 主役の道元役の坂東三津五郎は、二月は福岡の博多座に出演していた。つまり、身動きがつかないのである。そこで主だった役者が博多に集まり、少しは稽古をしてきたということである。
 二月二十八日は他の公演の稽古があり、たとえば松本幸四郎が駒形茂兵衛役の「一本刀土俵入り」をやる。そこには三津五郎も出演するので、稽古が完全に終わらなければ、次の稽古もできない。しかも、稽古というものは予定時間がのびるものなのだ。
 午後六時三十分稽古開始の予定であったが三十分遅れで七時からということになる。松竹の人で、その時間を巧みに予想する人がいる。歌舞伎座の正面から入ろうとすると、切符もぎりの女性に切符を見せるようにといわれる。もちろん切符など持っているはずはないので、どぎまぎしてしまっう。
「あのその、演目の出し物の作家で、あのその、稽古で、あのその・・・・」
しどろもどろになり、やっと通してもらう。劇場にいれてもらえないのを、木戸突かれるといういい方をすると、私はその夜に教えてもらった。松竹の社長も切符もぎりのおばちゃんに顔を覚えられていないのでしょっ中木戸突かれるらしい。
 舞台は、「菅原伝授手習鑑」の通し狂言の最中である。扉の向こうはしんとし、売店では片付けの真っ最中である。私は檜の階段を地下に降りる。歌舞伎座には何度となく足を運んだのに、そんな通路があることは知らなかった。華やかな舞台のまわりは、まるで迷路である。回り舞台の動力はまるで工場のようであるし、役者の楽屋はいかにも外から入りにくくなっている。
 地下には二十畳だか三十畳だか畳敷きの大部屋があり、演出家やプロディーサーや台本作家が、座布団を敷いていならんだ役者と向かいあう形に坐る。
「おはようございます」
 なぜか芸能関係者は、ニュースを扱うテレビ局でもそうなのだが、こうあいさつをする。私はこのことにいつまでも慣れない。
 こうして公演の四日前に出演者の全員が集まり、やっと台本の読み合わせがはじまるのである。訓練がよくされている歌舞伎役者は、さすがにうまい。稽古の時、役者は着物の着流しの姿である。女形も同じ姿をしているのだが、男の姿で裏声を使い女を演じるのが、なんだか不思議だった。
 考えて考えぬいた台本なのであるが、読み合わせとはいえ実際に役者が演じると、科白がうまく流れないことがある。そんな部分を直すために、私は稽古場に来ているのである。
 読み合わせを一度したきりで、立ち稽古となる。ほとんど台本を手放せない人もいるのだが、坂東三津五郎や中村橋之助といった主役級の人は、ほとんど科白がはいっている。たまにつっかえると、演出家がプロンプターになって教える。
 翌日もほぼ同じ時間に稽古が始まるのであるが、舞台の公演がないので、劇場のほうを使える。だが稽古の場所は舞台ではなく、売店のショーケースなどを片付けたところである。そこはカーペットが敷いてあり、広くて、使いやすい。しかも、同時にいくつかの場所で稽古をすることができる。舞台上では、大道具の制作がおこなわれているのだ。
 昼の十二時から稽古ははじまっているのだが、新作は手間がかかるので、「道元の月」の稽古は午後七時くらいから深夜までだった。稽古が終わると、飲みにいく。疲れるのがわかっているのに、気持ちをしずめるため、酒を飲みたくなったのであった。
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