「一日電車に乗っていた」

 東京駅に行き、新幹線に跳び乗る。さて今日は、どの新幹線だったかなと一瞬悩み、恵那に行くのだったなと思い出した。長野新幹線である。指定席に腰をかけ、赤ペンを持ってやらなかればならない校正をする。ふと窓の外を見ると、電車が動いているではないか。トンネルをでているから、上野は過ぎている。
 長野まで停車しない電車である。私は下ばかり向いているから、今何処を走っているのかわからない。稲刈りはほとんど終わり、遠くの山もなんとなくくすんだ色をしている。秋がやってきたのである。
  ナガノーッ、ナガノーッと、電車のアナウすが叫んでいた。たった1時間15分で長野に着く。日本列島は、急激に縮でいる。こんなに近くなったのでは感動はまったくないではないか。狭い日本をこんなに一生懸命に狭くして、いったいどうするのだと思う。
長野は春に桜を見にきたので、駅前の風景はなんとなく知っている。乗り換え電車は二十九分待ちなので、閑散とした駅前を散歩する。駅前デパートの地下食品売場にいき、いなり寿司弁当とお茶を買った。旅ばかりしていると、どこにいこうと高場する気分にならない。それはきっと不幸なことなのだろう。
 長野行き特急しなの二十号に乗った。ペンを握って細かな文字を見ているから、揺れが新幹線と違うことを感じる。細かく鋭く揺れるので、ものを書くのは不都合なのである。それども頑張って仕事を続ける。どうしてこんなに働かなければいけないのかと思いながら・・・・・・。
すべては私が招いたことなのである。そんなにも仕事を引き請けなければよいではないかというのが正統だが、拠り所のない自由業をしていると、つい働きすぎてしまう。明日のことが不安なのだ。自由業の自由とは、仕事を発注するほうが自由なのである。自由業といわれる自由は、仕事を断るほうだけにしかない。
 里を縫うようにして電車は走っていく。稲刈りが終った田んぼはものさびしい。これから冬を待つばかりである。五十歳を過ぎた私の年代もそのようなものかと思いながら、私は電車の揺れに負けずに校正を続ける。こんなことをしている間に、時間は飛び去っていくのである。
二時間十一分で岐阜県の恵那に着いた。中央本線は旧中仙道に沿って走っているのだ。恵那で降りながら、次の駅は多治見で、その次は、名古屋であることに気づいた。東海道新幹線で名古屋までいき、そこから乗り換えたほうが早かったのではないかとふと思う。しかし、深く考えないようにする。今さらどうにもならないことである。次の機会があったら、その時また考えればよい。
 駅の改札口の外にはお坊さんが待っていた。恵那で東海四県の曹洞宗道元禅師七百五十年大遠忌予修法要があり、私は道元禅師の話をするために呼ばれたのである。東海四県とは、岐阜、静岡、愛知、三重のことで、来年二〇〇二年が道元禅師が亡くなって七五〇年目にあたり、大法要をするのである。その前年の今年は、軽く予修法要をするのである。
 今年百二歳になった永平寺の宮崎禅師に挨拶をし、顔馴染みのほかの老師方にも挨拶をして、私は舞台に上がり千三百人の聴衆に向かって道元禅師の話をする。修業を積んだ老師もたくさんおられる聴衆に道元禅師の話をするのであるから、もちろんプレッシャーはある。ともかく講演は無事終った。
 恵那駅で乗る電車の出発まで、少々時間があった。お坊さんが次の中津川駅まで送ってくれるついでに観光をすることになった。福沢諭吉の娘婿のなんとかさんがつくった、日本初のコンクリート製の巨大なダムが、木曾川につくられていた。そのあたりは花崗岩の生産地で、山に白っぽい巨大な岩が露出している。川の岸に岩がでていると、渓谷美ということになる。ここは恵那侠である。ダムから上を舟で溯る観光コースであるということだ。
 この恵那峡を見下ろす高台に、遊園地があった。観覧車やジェットコースターの塔が建っているのだが、どれも動いていず、赤錆ている。会社が倒産して営業をしていないのである。かつては遊園地に向かう自動車が列をなし、大変な賑わいであったという。集まってくる客目当てのドライブインなども、すべて倒産してしまったようである。時は恐るべき勢いでめぐってくる。この時代は、いろんな関係の中で突然いらないものができてしまうから恐ろしい。
 木曾の御嶽山は見えなかったが、正面に恵那岳があった。このあたりは木曾檜の産地なのだが、檜は檜ばかりの単林ではいい木が育たず、いろんな木がまじって繁る中にいい檜ができるのだそうである。檜の美林もほとんど伐採されてしまい、昔ながらの本当の美林というものは、伊勢神宮のための森ぐらいしか残っていないそうである。
 中津川十七時十二分発しなの二十七号は、グリーン車の座席である。文藝春秋社のほうで切符を手配してくれたからだ。ここまでは立松和平事務所のほうで手配したので普通車なのだ。まあ、どちらでもかまわない。私は走る電車の中で校正の続きをやる。
 十八時四十九分塩尻着、改札口の向こうに文藝春秋社の編集者の顔があった。彼女は、最近、私の短編小説集「ラブミー・テンダー_新庶民烈伝」をつくってくれた。今夜は文春講演会がある。最初は二つは無理だと思ったのだが、恵那と塩尻は電車で一時間半しかかからない近さなのだ。東京と長野の方がもっと近いのであるが・・・・。
会場に行くと、落合恵子さんの講演が先にはじまっていた。私も席について拝聴した。落合さんは同郷の宇都宮出身なのに、私と違って言葉がまったく訛っていないのだった。