煙り立つ室の八嶋

イラスト横松桃子
 栃木市惣社町にある大神神社の祭神は、日本で最古の神社とされる奈良の桜井の三輪大社より奉斎した大三輪の神である。栃木県でも最も古い神社であろう。
 縁起にはこんな意味のことが書いてある。第十代崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国にやってくると、天変地異が相い継ぎ、悪疫流行し民家は疲弊していたので、景勝地室の八嶋に大三輪の神を祀ったところ、天下は安穏となり、人心は大いに安定したという。
 惣社が創立きれたのは、延長四一(九二六)年である。国司が国府に赴任すると、惣社に国中の名碑を奉斉して朝夕礼拝することになつた。大神の威徳はますます高く、社殿楼宏壮をきわめたと、沿革史は伝えている。
 ここからは下野国府や国分寺も近く、土器つくりや金属加工の人々の暮らす村もあった。惣社はまわりが寺院に囲まれ、かの道鏡も下野国分寺に流され、大神紳社のあたりに暮らしたという。古代の下野国の文化の中心地であった。
 今は雑木林に囲まれ、そのまわりは畑である。
歴史を考えなければ、ごく平凡な関東平野の田舎の風情だ。鎮守の杜は大木は少ないのだが、敷地が広くて、関東の里山の景色をよく残している。
 鳥居から本段まで参道がまっすぐに伸びている。毎年四月十六日の春季大祭では、流鏑馬の神事がおこなわれるという。神主によれば、馬と射手の手配が大変なのだそうだ。昔は農耕馬が近くにいくらでもいたが、今は乗馬クラブ頼りである。ところが別の神社の流鏑馬で、馬が溝にはいって射手もろとも転働してしまった。馬は足を骨折し、乗馬クラブでは使えなくなった。射手も怪我をしたそうだ。その乗馬クラブからはもう馬を出さないといわれ、次の大祭ではやっとのこと別の乗馬クラブから馬を借りる約束ができたとのことである。ところが今度は射手に問題が発生した。いつも頼んでいる農協の戦員が指に怪我をし、弓を持てなくなってしまったという。それも遠くの人に頼んで、やっとなんとかなりそうだということだ。
 由緒のある神社を維持するためには、何かと苦労が多い。室の八嶋はこのあたりの八社の神を祀る、いわばミニチュアの神社巡りをするところだ。香取、雷電、浅間、筑波、二荒、熊野などの神社が小さな島につくつてあり、二、三分間もあれば一気にお参りすることができる。
 小学生の時に私は社会科見学で室の八嶋にきたことがあるのだが、その頃はよくわからなかった。要するに、つまらなかった。実はここには壮大な世界があり、東国の神々はここにくればすべて礼拝することができるということだ。国司が毎朝礼拝したのは、この室の八嶋のことであろう。
 境内には藤原実方の有名な碑が建っている。少し草が大きくなれば埋もれそうな、趣きのある古碑である。
いかでかは思いありともしらすべき
   室の八嶋の煙ならでは
 どのようにして私の思いをあなたに伝えたものでしょうか。私の恋心は室の八嶋の煙のように強く激しいのですよ。こんな意味であろう。室の入場は「煙立つ……」という歌枕の場所なのだ。
 この歌枕の土地を芭蕉も訪ねた。
「おくの細道」で芭蕉はこんな意味のことを書いている。
「旅の苦労に白髪が増えていくという恨みを重ねても、耳に開くだけでいまだ目には見ていない名所にいき、もし生きて帰れたら詩人としてこれほどの喜びはないと、あてにもなら
ぬ期待を将来にかけ‥‥‥」
 詩人としての名所を訪ねるということは、歌枕の場所にいくことである。そうやって思いを込めて訪ねてきた室の八嶋はまったくのミニチュアで、思いの中にしかないものだとわかっているつもりでも、がっかりしたに違いない。その時、芭蕉は一句を詠んでいる。
 糸遊に結びつきたる煙かな
 野辺から立つ陽炎と池から立ち上がる水蒸気とが、流れて溶けあっている情景である。のんびりした春の情景と、はぐらかされた芭蕉の心境とが重なったのだろう。
「おくの細道」では、句をあげるかわりに、この神社のもう一つの祭神の木花咲耶姫について、同行の弟子曽良の言葉としてあげている。富士の浅間神社と同じ神体の木花咲椰姫は夫の瓊瓊杵尊より不倫をしたのではないかと疑われ、戸のない小屋にはいって火を放ち、身を焼いて身の潔白を誓い、皇子を産んだ。その煙から「煙立つ…」の枕言葉が生まれたのだ。
 芭蕉も身を焼くようにして、詩人として生まれ変わりたかったのだろう。俳譜の大家として安住できるのに、すべてを捨てて身ひとつの旅にでたのである。
 木花咲耶姫を祀る牡鹿の前で私は神主と語り合っていた。神主はこんな話をしてくれた。
「別れ話をはじめた男に向かって、女が激しくなじる声が、社務所まで聞こえますよ。二人できた時には仲良くて、男一人に女が複数できた時には、たいてい別れ話ですね。いつも女が男を攻撃しています」
 木花咲耶姫に力を借りて、もともと強い女性がますます強くなる。この名前の響と漢字の形もあるだろうが、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は近頃若い女性の間で人気なのだそうだ。
 この大神神社には、大祭ともなればたくさんの人が集まってくるのだろう。室の八嶋は不思議なところである。