生命と自然への讃歌
文芸評論家 黒古一夫

 立松和平氏の新作「日光」(勉誠出版刊)を読む。この長編は、昨年九月(二〇〇七年)に「二荒」と題して新潮社から刊行されながら、今年の二月(二〇〇八年)に地元の著作家から「会話部分に自著の一部と類似した個所がある」という指摘を受け、関係者が協議を重ねた結果「絶版」としたものを全面的に「書き直した」作品である。
 「二荒」は、絶版になったからという意味だけでなく、「不幸」な作品であった。刊行が泉鏡花賞と親鸞賞を受賞した「道元禅師」(上下、二〇〇七年七月、東京書籍刊)から近かったということもあり、この大作の陰に隠れてしまったということがあったからに他ならない。立松氏によれば、「二荒」は何年も前から構想を練り執筆にも十分な時間をかけた作品で、手応えも確かであったという。だからこそ「二荒」の絶版を公表した際に、立松氏は「書き直して再刊したい」とコメントしたものと思われる。
 では、旧作(「二荒」)と、改作されタイトルも「日光」と改められた新作とでは、どこがどう変わり、変わらないものは何であったのか。まず、変わらなかったのは、当然のことだが、「生命」や「自然」への讃歌および「人間を超えた存在」への畏(おそ)れといったテーマであり、八世紀中頃における勝道上人の「二荒山」での仏道修行と大正末から昭和初期にかけて本格化した「中禅寺湖」開発の具体、および戦後における中禅寺湖の湖畔に生きる若者の「恋愛」といった作品の内容である。
 そして変わったのは、小説にとって最も重要なファクターの一つである「構成」である。旧作「二荒」には、各章にその時代を説明するための作品とは全く関係ない「プロローグ」めいたものが付されていたか、新作ではそれが全て削除された。次に、「二荒」は、戦後の純愛物語を描いた第一章、中禅寺湖が第一級のリゾート地となるきっかけを作った昭和初期の「日光アングリング倶楽部」について書かれた第二章、第三章の後半に、全く別の物語のように勝道上人の二荒山での修行場面が置かれる、という複雑な構成になっていたが、新作では勝道上人の修行−「日光アングリング倶楽部」の話〜戦後の純愛、と三つの物語が年代順に置かれるようになった。もちろん、地元の著作者から「自著に似ている」と指摘された部分は全面的に削除された。
 これらの変化か作品に何をもたらしたか。まず読みやすくなり、そのことと相俟って「生(死)とは何か」「自然との共生」「超越的なものへの畏敬」といったこの長編のテーマ、つまり最近の作者が考え続けていることが、より鮮明に読者の元に届くようになった。それ故に「二荒」から「日光」への改作は、結果として「災い転じて福となす」ものであり、「途方にくれて」(一九七〇年)から約四十年になる立松の作家生活を記念して、二〇〇七年六月から刊行される「立松和平全小説」(全二十五巻予定)に花を添える作品になった、とも言える。

くろこ・かずお 一九四五年群馬県生まれ。
文芸評論家、筑波大大学院教授。著書に「大江健三郎論」「村上春樹」「立松和平伝説」「林京子論」など多数。編著に「在日文学全集」(全十八巻)「立松和平 日本を歩く」(全七巻)などがある。

下野新聞2008年12月16日(火)

『二荒』を『日光』に改作
立松和平氏の問題作が装いも新たに刊行
 2007年9月に刊行されながら、翌年の2008年2月に郷土史家から「会話部分に自作の一部からの引用がある」との指摘を受け、関係者と協議を重ね、版元である新潮社が「絶版」を決めた『二荒』が、この度書き直され、タイトルも「日光」と改め装いも新たに刊行された。
 『日光』(勉誠出版刊)は、郷土史家の「この本の内容は『歴史』である」(「はじめに」)という言葉に従ったために「盗用」を疑われた立松氏が、「絶版」を公表したコメントの中で「書き直して再発行したい」と発言し、それが半年後に実現した作品である。新生=改作『日光』は、物語の骨格こそ『二荒』とさほど変わらないものの、構成(物語の時間)を、二荒山での勝道上人の修行−大正・昭和初期における中禅寺湖(日光)開発−戦後の若者達による純愛物語、と順当な流れに変えたことによって(新潮社版では、八世紀の物語と二〇世紀の物語が往ったり来たりしていた)、「自然との共生」「生命の尊重」「人間存在を超えたものへの畏敬」といった主題がより鮮明となり、全く新しい作品のような印象を与えるものになっている。
 立松氏は、このところ泉鏡花賞と親鸞賞を受賞した『道元禅師』(上下・07年、東京書籍刊)やその前の『救世聖徳太子御口伝』(06年、大法輪閣刊)のような仏教に深く関係した人物伝を書く一方で、「死」と隣り合わせたような極限の「生」はどうあるべきか、といった根源的問いを底意に秘めた『日高』(02年、新潮社刊)、『浅間』(03年、同)、あるいは短編集『晩年』(07年、人文書院刊)などという作品を世に問うてきた。『日光』(『二荒』)は、まさにそのようなテーマに沿う作品として、「盗用」疑惑を実作=書き直しで打ち消し、立松氏が見事に復活したことを示す作品になった、と言える。
図書新聞2009年1月17日(土)

神仏の霊地 千年の物語
 日光の自然は精神性が高い。男体山は観音菩薩のいる観音浄土、即ち補陀落山(ふだらくさん)とされ、音の響きから二荒山(ふたらさん)と呼ばれていた。未踏峰のこの山に入峰(にゅうぶ)して観音菩薩に会おうと発願したのは、勝道上人である。
 もちろん道があるわけでもない原始境で、勝道は苦節を重ねる。途中、この世のものとも思えない美しく大きなものを発見する。中禅寺湖である。何度も挫折をくり返して十四年たち、勝道は四十七歳になっていた。
「われもし山頂にいたらざれば菩提にいたらず」
と悲壮な決意をし、生死の境をさまよいながらも、やっと山頂に立つ。
 その法悦を描いた空海の文章が、「性霊集」と「二荒山碑」にある。
 「ひとたびは喜び、ひとたびは悲しみ、心魂たもちがたし」
 こうして奈良時代の天応二(七八二)年、日光は神仏の霊地となった。それから千年以上の歳月が流れ、現代までの千年を一つの物語として書いたのが『日光』である。
 私が中禅寺湖の奥の千手ケ浜に住む、日光の仙人といわれる伊藤乙次郎さんと会ったのは昭和六十三(一九八八)年のことで、その時小説の構想を具体的に得てあたためてきた。乙次郎さんは鉱山主の英国人ハンス・ハンターが楽園を夢見てつくった釣りクラブのリバーキーパーをしてきて、もともと鱒(ます)のいなかった奥日光の自然をつくった人だ。私は仙人から日光の森羅万象の話を聞くのが楽しみだった。また仙人の子息の伊藤誠さんからも実に多くを学び、私は物語を編み上げていったのだった。
東京新聞(夕刊)2009年2月6日(金)