桃の花
初版発行:2006年11月30日
発行所:(株)インデックス・コミュニケーションズ
価 格:1,200円+税
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救世 聖徳太子御口伝
初版発行:2006年12月10日
発行所:有限会社大法輪閣
価 格:2,300円+税
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ブッダの道の歩き方
はじめに  聖者の向こうのお釈迦さま
 アルポムッレ・スマナサーラ長老とはじめてお目にかかったのは、東京都内のホテルであった。日本テーラワーダ仏教協会が日本に戒壇をもうけることになり、スリランカから高僧やたくさんのお坊さまたちがお見えになった。その記念のレセプションの席上で、私は長老と対談を依頼された。在家者の私が出家者と道の話をするのだから、対談というよりは、私が問うて長老が答えることになる。前もって長老にお目にかかっておいたほうがよろしいと係の人はいってくれたのだが、私に時間の余裕がなくて、当日ホテルで、しかも大勢の人が見詰める壇上で初対面ということになつてしまった。
 スリランカのお坊さまとお話をするといった程度の認識しか、私にはなかった。言葉については、長老は完壁な日本語を話されるから心配は無用ということだった。なんの打ち合わせもなく、突然対話ははじまったのである。何をどう話したらよいのか見当もつかず、私は緊張していたのだが、すぐ前の長老は穏やかに微笑んで、視線を直接相手に突きさすというのではなく心持ち下を向き、どのようにきてもいいのだとの軟らかな自在さでそこにおられた。私は対決するなどという気持ちはまったく持たなかったが、慈悲の柔和な心に包まれているのを感じ、素直な心持ちになったのであった。つまり、子供になったのだ。
 私は死の床にある母のことがいつも心の多くの部分を占めていて、心の悲しみと現実に処理しなければならない問題の間で苦しんでいた。諸行無常などわかっているはずなのに、私は母との別離の悲しみに打ち勝てないでいたのだ。だからこそ私は一番の悩みを質問したのである。長老のお答えはまっすぐで揺るぎもなかった。
 「無常に立ち向かうことこそが、精神的な勇気なんですよ。無常を認める人こそ精神的に強力な人間になります。われわれがなぜ精神的に弱いかというと、無常から逃げようとするからなのです。しかし、無常からは逃げられません」
 私は自分の前に立っている人の名をお釈迦さまというのではないかと思った。お釈迦さまなら悩める人々にそのように説いたはずなのである。いわれてみればそのとおりで、ここに足すことも、ここから引くことも一切ない。揺るぎもないとはこのことだ。
 話しているうちに、私は父を前にした子になったのである。目の前の裸足にサンダルをはいた聖者の向こうには、お釈迦さまがおられるのだ。お釈迦さまの認識の内容を仏教というのだが、二千五百年もの間、仏教は揺るぎのない数多くの聖者たちによって説かれつづけてきたのだと私は追体験をした。
 あの対話から一ヵ月後、そのつづきをしないかと誘われた時、私はお釈迦さまとの強い御縁を感じることができた。この本を読んだ人が、私が感じたように感じてくれればよいなと願う。
初版発行:2006年11月20日
発行所:株式会社サンガ
価 格:1,600円+税
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伊勢発見
 あとがき − 時間と空間の旅を重ねて
 いつしか伊勢通いがはじまっていた。足を運べば運ぶはど、日本が国としての形をつくる以前の姿、日本の原郷(まほろば)が感じられてくる。
 伊勢通いをくり返してきたのは、もとはといえば毎日新聞の東海版に毎週原稿用紙六枚の連載をすることになったからである。何を書くかは私にまかせてくれるということだが、条件としては愛知、岐阜、三重の三県のうちのことでなければならない。そこでまず思いついたのが伊勢であった。
 伊勢には日本人がどのように生きてきたのかという記憶が宝の庫のように詰まっている。本文に書いたように、掘っても掘っても掘りつくすことのできない、無限の埋蔵量と私には感じられた。私にすれば、伊勢を発見したのである。
 毎日新聞には二〇〇三(平成十五)年の一月から「伊勢へ伊勢へ」と題して書きはじめ、いつまでもつづけているわけにもいかずほかのテーマを書いてから、また伊勢に戻った。「伊勢ふたたび」「伊勢みたび」と書き継ぎ、伊勢参宮から熊野にぬけて「熊野古道」へと展開したりした。本書はその連載を全面的に改稿したもので、私にとっては一歩一歩発見に満ちた探究の成果である。
 伊勢にはそれからも何度も足を運んでいる。夏の気配の強くなったある日、私は本書をまとめるのに苦労をかけた新潮社の柴田光滋氏、中村陸氏と伊勢を訪問した。熊野古道のツヅラト峠を歩き、伊勢に戻って古市の麻吉旅館に泊まる計画だった。
 外宮にお参りすると、遷宮のためのお木曳(きひき)が行われていた。内宮は川曳(かわびき)、外宮は陸曳(おかびき)である。人が集まっているところに立っていると、しっかり見ていってくれと私は法被(はっぴ)を着た人に前列に押し出された。長い時間待って、遷宮用材を積んだお木曳車がすぐ鼻先を疾走して過ぎた。式年遷宮の行事はすでにはじまっている。伊勢の人たちはこの行事を心ゆくまで楽しむつもりだと見えた。
 翌日、矢野憲一さんと内宮にお参りした。神宮の生き字引のようなこの人といると、伊勢のことがよくわかる。私はどんなに助けられたか知れない。
 遷宮予定地である古殿地(こでんち)の金座(かねくら)を眺めていて、私はある感懐にとらわれた。二千年の歴史を持つ伊勢神官のうちで、まったく変わらないのがこの空間である。このような社殿がつくられる以前、神は鎮まったのである。そう考えるなら、白い玉石が敷かれただけのこの空間こそが、私たちの真の原郷といえるのだ。
 私は伊勢を歩き、時間と空間の旅を重ねて、この場所にたどり着いたのである。なんにもないからこそ、無限の空間であるのだ。このなんにもないというところが、まことの深みである。

  二〇〇六年十月
初版発行:2006年11月20日
発行所:株式会社新潮社
価 格:700円+税
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芭蕉の旅、円空の旅
初版発行:2006年11月20日
発行所:日本放送出版協会
価 格:920円+税
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十万分の一秒の永遠/HASHIの仕事と人生をめぐって
  かくして対話ははじまった
 いつの間にか見ている。あるいは見させられている。コマーシャル・フォトとはそういうものである。ニューヨーク、あるいはパリ、あるいは東京でしのぎを削る競争の果てに生き残ってきた写真を前にしていると、この世界は私たちの深層に確かに染み込んでいると感じ、高速で展開している時代にあって、むしろ懐かしささえも感じる。早い話が、どこかで見ているのである。写されている素材も、その作品の質は別として水に落ちる小石であったり、ミルクの表面に激突するイチゴであったり、水とともに跳び散るリンゴであったり、つまりどこにでもある静物(ステイルライフ)である。本来ものいわぬ静物がこんなにも雄弁なのは、もちろん写真家がそのように撮っているからだ。いろんなものを見すぎて惓(う)み疲れた目を奪い、見たものの脳裏に購買欲というような情動を与えるのが、コマーシャル・フォトグラファーの仕事だ。そのためにはまず何事にも慣れすぎた目を持つクライアントを取り込んでしまわなくてはならない。そして、実際にその写真が人の目に触れることによって、商品が売れることが必要なのだ。そのような俗世のさまざまなことから立ち上がってきたのが、HASHIの写真なのである。
 コマーシャル・フォトで写真家の名前がどのくらい必要なのだろうか。作家は商品の陰に隠れるべきかもしれないし、あるいは商品とともにあるべきなのかもしれない。HASHIの写真は、あまりに写真家の作家的要素が強いために、どんな広告に使われようと、彼の作品であるということをやめない。広告とともにあろうと、写真だけがそこにあろうと、HASHIはHASHIなのだ。広告業界のクライアントやディレクターにとって、HASHIはまことに頼みになる存在かもしれないし、あるいは使いにくい存在かもしれない。つまり、写真家として自立しているがゆえに、逸脱した存在なのである。
 雑誌を開き、また街の大看板を見て、HASHIの写真に触れずに生きていくということはほとんど不可能である。HASHIの名前をたとえ知らなくても、作品を前にすると、奇妙な既視感を覚える。何度も見せて記憶に残させるというのが広告の特性だが、私たちの生活の中にかくも染み込んでいるのだから、HASHIの作品ほ私たち生活人の意識の深いところに無意識のうちに影響をおよばしているのである。写真はかくも日常的風景の一部になったのである。
 広告から切り離され、一枚の写真になるとますます、作品として立つ。広告としての属性を捨て、写真の持つ力だけで存在する。HASHIの写真はそのようなものだが、その根源的な力は、この作品に内在する永遠性ではないかと私は感じるのだ。時間を極限まで微少に切り詰めていけばいくほど、その瞬間性の中に永遠が見える。
「十万分の一秒の永遠」という言葉を思いついた。HASHIの写真に普遍性を感じるのは、私たちをその中におさめている諸行無常という真理が、瞬間の現象の連続によって無限につながっているのだということを、微分して見せてくれることにあるのではないだろうか。瞬間と永遠とは、実は矛盾する要素である。そうではあるのだが、突きつめたその瞬間の中にこそ永遠性が内在しているということを、HASHIの写真はまことに雄弁に見せてくれるのである。
 HASHIがニューヨークから東京にきた時、私は会いに飛んでいった。彼自身は天性の写真家といったらよいのか、言葉を発すれば発するほど、理論によって作品を撮るというタイプではないと感じる。言葉にならない感性とかひらめきとかいう領域で仕事をしていると見えた。そのことでは、私は大いに共感する。また人間としては義理や人情を重んじる古風さを持ち、そんな人間の普遍的な美風に包まれているからこそ、ニューヨークの生存競争の厳しさの中でも生き残ってくることができたのだと思えた。
 要するに、彼はいい男なのである。渋谷で昼食をとり、アートンの編集室にいってから、突然のごとくに、私たちは語りはじめた。編集部の出口綾子さんが咄嗟に気をきかして傍らにテープレコーダーを置いてくれたので、記録をとることができた。
 僥倖といった形で、いつしか対話ははじまっていたのだ。
初版発行:2006年10月16日
発行所:株式会社アートン
価 格:1,200円+税

日本の歴史を作った森

あとがき  美林を歩こう
 日本は森の国である。なにしろ国土の七〇パーセントが森林なのである。たとえばアフリカのサハラ砂漠(さばく)やナミブ砂漠に行って帰ってくると、この国はなんと恵(めぐ)まれた風土の中にあるのだろうと思う。普段見慣れているとつい見過ごしてしまうものであるが、緑は私たちの命にとっては大切なものである。
 この国で旅行をすると、車窓から森か山が見えないということはない。年中どこにあっても、車窓から緑が見えるのである。こんな国が他にどこにあるだろう。
 それなのに、たとえば世界最古の法隆寺(ほうりゅうじ)をつくるほどの材がないということは、またなんとしたことであろう。見かけはよいのだが、森の力は根底的に落ちている。旅をすればするほど、私はそんな認識(にんしき)を持ってしまうのだ。そのことがまず、私が森の旅へと出かけた理由である。
 私は自分のできることとして、ささやかな植林活動をしている。寺社などの日本の文化財を後世に伝えるヒノキの大径木をとるための、「古事の森」づくりである。また私の母方の父祖の地である栃木県足尾で、銅山開発のために表土さえも失われ、地上から消滅した森を蘇(よみがえ)らせるための、「足尾に緑を育てる会」の活動もしている。足尾に一〇〇万本の可能なあらゆる木を植えようと宣言してはいるのだが、十余年たった現在、三万本が植えられたに過ぎない。これをたった三万本とみるのと、着実に三万本植えられているとみるのとでは、未来への展望はまったく変わる。私は着実に三万本植えてきたのだと考えたい。一〇〇万本を植えるには、一〇〇年だか二〇〇年だか人の命にとっては途方(とほう)もない歳月(さいげつ)がかかるのだが、一本ずつ植えてきて、三万本まできたのである。現代を生きている私たちは、私たちの命の範囲(はんい)でできるところまでやり、あとは後進の世代に托(たく)すしかない。森に流れる時間とは、そのようなものである。
 破壊(はかい)されたものばかりが私たちの前にはあるのだが、そうではない美林が、たとえ相当に傷(いた)んでしまっているにせよ、存在しているはずなのだ。あるいはかつて存在したはずなのである。その美林への旅をしたいと、私は願ったのであった。
 文筆を業(なりわい)とする私は、与(あた)えられた紙面に向かって最善をつくす。白い紙の荒野(こうや)に木を植えるように、文字を書く。昔ながらに原稿(げんこう)用紙にペンで文字を綴(つづ)っている私は、一字一字植林するかのように文字を置いていくのだ。いつか美林に向かって探求の旅をしたいと願っていた私は、毎日新聞にその場所を得ることができた。東海版の連載(れんさい)「もの語る旅 東海の道を歩く『美林の香(かお)り』」(二〇〇五年九月三〇日〜二〇〇六年三月二四日)で、木曽(きそ)ヒノキのことを書いた。裏木曽の付知(つけち)や加子母(かしも)に幾度(いくど)となく足を運び、御嶽山(おんたけさん)にも登り、その思いを連載として書き綴ってきたのだ。そうしてまとまったのが本書である。
 こうして木曽ヒノキをめぐる旅をしてきて、まず感じるのは、森がなければ私たちは歴史をつくることもできないし、生きることもできないのだという思いを強くしたということである。そして肝心(かんじん)のその美林は、まさに消えようとしている。消えてしまってからでは、百万言を弄(ろう)しょうと、美林の実在を感じるのは困難なのである。
 美林を美林として残す。しかも、人がその美林に生かされながらである。生かされるためには、まず美林を感じなければならない。そのためには美林にはいることである。美林を歩こうではないか。若者たちに、私はこう呼びかけたいのである。

  二〇〇六年盛夏(せいか)− 酷暑(こくしよ)が気持ちいい東京にて
初版発行:2006年8月10日
発行所:株式会社筑摩書房
価 格:700円+税
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象が眺める

後 記

そこで尊師は朝早く、内衣を着け、衣と鉢とをたずさえて、ヴェーサーリー市に托鉢のために入って行った。ヴェーサーリー市において托鉢をして、托鉢から帰ってきて、食事を終えて、象が眺めるように(身をひるがえして)ヴェーサーリー市を眺めて若き人アーナンダに言った。

「アーナンダよ。これは修行完成者(=わたし)がヴェーサーリーを見る最後の眺めとなるであろう。さあ、アーナンダよ。バンダ村へ行こう」と。
(「ブツダ最後の旅」中村元訳岩波文庫)
 私の好きな場面である。ブツダは自らの最後をさとり、故郷に向かって旅をはじめる。八十歳のブッダにとっては、この世でなすべきことをなし終え、この世の一つ一つに別れを告げていく。ヴェーサーリーでは雨期の九十日間の修行、夏安居(げあんご)にはいる。ブッダはここで托鉢にいく。死の直前まで、身体を動かすことのできるその時まで、ブッダは自らの修行をしていたのだ。帰ってきてブッダはアーナンダにいう。

アーナンダよ。ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ雲樹の地は楽しい。ゴータマカ雲樹の地は楽しい。七つのマンゴーの雲樹の地は楽しい……
(「ブツダ最後の旅」中村元訳岩波文庫)

 目に触れるものすべてが楽しくて美しい。ブッダはこの世のことを一切否定せず、全肯定の目をしている。これがブッダが生涯かかって獲得した目なのである。
 この「ブッダ最後の旅」は私には生涯の書物であり、ここに描かれているインドの場所にもいってみた。今はヴァイシャリと呼ばれるヴェーサーリーにも足を運んだ。ヴァイシャリの郊外で、私は「象が眺めるように」大きく身をひるがえして、街のほうを眺めてみた。もちろん私はブッダのようにふるまってはみたのだが、そのことはまわりの人には黙っていた。私の心の中にだけあった光景である。
 あの時の私の人知れぬ動きのように、私は本書の題名を「象が眺める」とつけてみた。あの時と同じくさまにはなっていないかもしれない。ましてブッダのように全肯定の目を持つことはとてもできない。そうではあるのだが、私は象が眺めるように大きな動作で世間を眺め渡してみるのだ。
 日々に追われて書き継いでいった文章を、本書にはおさめてある。こうして毎日文章を書くのは、私にとってはブッダが托鉢行にでるようなものだ。ブッダはその行で日々の糧を得るのであるが、同時にそれは人々と出会うためでもある。私の願いは、できることならブッダのように、死の直前まで自らの足で大地を踏みしめてその行をつづけたいということだ。
 そのような意味から、私は本書の題名にやや大きな身ぶりの言葉をつけさせていただいたのである。
二〇〇六年夏、緑の葉陰の東京にて
初版発行:2006年8月10日
発行所:株式会社柏艪舎
価 格:1700円+税
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百霊峰巡礼 第一集

はじめに
 百霊峰巡礼をしないかと「岳人」編集部に誘われた時、私はそこに多くの因と緑とが働いていることを感じた。こうして神仏の霊地を訪ねて登山をするのは、私には必然の成りゆきにも思われたのだった。
 百の山に登るとして、月刊誌だから百カ月かかり、足かけ九年の歳月が必要だということになる。高尾山や鞍馬山などの低山もあるが、霊山ということでどうしてもはずせない。御嶽山や立山や槍ヶ岳や穂高岳や富士山など、三千メートルを越える山々もある。これらの山々に実際に登り、神仏と感応しっつ、およそ十枚の原稿を書きつづける。知力も体力も充実している状態を、八年と四カ月つづけるということである。寿命がある凡夫としては、残された年月は少なく、私には最期の機会かもしれない。
 力んでいるわけではないのだが、本当にそう思った。こんな仕事を、ライフワークというのだろう。
 淡々としていなければとてもつづけられないのではあるのだが、力もいれなければつとまらない。そして、何より山を楽しまなければならない。こんなに楽しくて実のある仕事もそうはないと思う。私は必ず毎月一つの山を、愛惜の感情とともに登る。どの山の歴史も、人間の歴史であるからだ。
 そもそもヨーロッパのアルピニズムは、山を征服するという思想である。そのためには、必ず山頂に立たねばならなかった。ヒマラヤに未踏峰があれば、山頂に立った者はそこに国旗を立てた。誰がそこを征服したのか、大きな声で主張したのである。
 伝統的な日本の登山は、その対極にある。山は神仏と感応する道場なのだから、征服するという観念からはほど遠い。山頂に立つことが目的ではない。
 百霊峰巡礼をはじめるにあたり、最初に私は故郷の男体山を選び、さっそくそこで思い知らされることになる。日光二荒山神社中宮祠が登山口で、御神体にあたる男体山は奥の鳥居をく
ぐつて登る。そこから先、山頂の奥の院まで、道はまっすぐである。崩れて迂回路になっているところもあるが、それは本来の道ではない。まっしぐらに奥の院に向かう道は難路である。楽をして山頂に至ろうという発想はまったくない。何故なら、そここそ修行道場だからだ。
 体力をつけて登山をするのではない。精進潔斎して動物性たんばく質をとらず、米・麦・粟・稗・豆の五穀断ちをし、時には眠らないで登る。どう見ても、山にはいるために身体を弱らせているのだ。こうして自我の巣である体力を除き、神仏に感応しょうというのである。古人は登山に、そこまでの深い精神性を求めたのだ。そのことが私には楽しい。巡礼はまだまだつづく。
 山の友は、岳人編集部の原田拓哉氏と、カメラマンの鍔山英次氏、丸山剛氏である。
初版発行:2006年7月29日
発行所:東京新聞出版局
価 格:1800円+税

目次

一  男体山 栃木 麗しき観音浄土
二  御岳山 東京 天空の隠れ里
三  貴船山 京都 根源へ
四  筑波山 茨城 集い歌い舞う山
五   月山 山形 この世を生き死んで甦る
六  三上山 滋賀 古代への記憶をたどる
七  三峰山 埼玉 山気の濃さ
八  鳳来寺山 愛知 瑠璃光浄土の仙境
九  磐梯山 福島 天に架ける岩の橋
十  蔵王山 宮城/山形 昔の行者の気持ち
十一 赤城山 群馬 地蔵の救い
十二 高野山 和歌山 空海の山
十三 御嶽山 長野/岐阜 この世から遠く離れて
十四  鞍馬山 京都 牛若丸は生きている
十五 比叡山 滋賀/京都 一日回峰行
十六 弥彦山 新潟 訪来神の山
十七 二上山 大阪/奈良 古代への道
十八 英彦山 福岡/大分 山伏の記憶
十九 武甲山 埼玉 消えた山頂
二十 大山 神奈川 雨を呼ぶ石
二十一 白山 石川/岐阜/福井 高貴な白い峰
二十二 立山 富山 山頂の極楽浄土
二十三 幌尻岳 北海道 天の神に許されて
二十四 庚申山 栃木 庶民のお山巡り
二十五 御正体山 山梨 木喰行者の気品

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不憫惚れ 法昌寺百話

あとがき  毘沙門講の面々に供養する
 東京都台東区下谷にある日照山法昌寺では、毎月三の日に毘沙門講が行われる。この十五年ほど、私は時間があるかぎり講に参加している。法華経を読誦し、和尚の法話を聴聞したあと、近くの居酒屋にくり込んで精進落としの直会(なおらい)をする。かつては下谷落語会も一緒におこなわれ、和尚の法話のあと、本堂を高座に見立てて落語家の噺を聞いた。
 また厳冬の二月三日には寒行をする。本堂で法華経を読誦したあと、毘沙門天と染めぬいた法被(はっぴ)を着て、団扇太鼓を叩きながら街にくり出す。吉原神社で遊女の供養塔にお参りし、草木国土悉皆成仏、すなわち生きとし生けるものも死んだものもすべてを成仏させつつ、関東大震災や東京大空襲や阪神淡路大震災で非業の死をとげた諸精霊を供養する。隅田川の川端や浅草寺界隈などを二時間ほども巡回して下谷の法昌寺に戻り、それから近所の居酒屋にくり出して直会をする。それはこの作品に書いたとおりで、つまり、本当にそのとおりのことをしているのだ。
 法昌寺の住職は福島泰樹和尚だ。下谷の本門法華宗のお寺で生を受けた福島和尚と知り合ったのは、学生の時代に『早稲田文学』の編集の手伝いをしていた私が、短歌の原稿を依頼しにいったからである。福島泰樹は二十代はじめですでに日本を代表する前衛短歌の旗手で、うかつなことにその時私は彼が僧侶であることを知らなかった。知り合ったその晩、私たちは大酒を飲み、そして、意気投合した。それ以来、四十年になんなんとする親友付き合いである。和尚とはどれだけ酒を飲んだかわからず、幾春秋をともに過ごしてきた。
 和尚は相当昔から法昌寺毘沙門講をつづけていて、私は直会の楽しさにひかれてまず参加するようになった。そこにはいろんな人がやってくる。小説に出てくるのは老人ばかりだが、本当は若い人もいないわけではない。寒行や寒念仏は俳句歳時記にもとられている江戸時代からつづいた季節の行事だが、東京の下町でも山の手でも本気でやっているお寺を私はほかに知らない。体験してみると、法昌寺尾沙門講は江戸下町の香りがする。
 私は私自身の法昌寺への供養として、短編連作小説を捧げることを誓願した。そこに集まる人たちの人生を垣間見る瞬間がしばしばあり、それが小説家魂を刺激する。ここに書かれていることば、この人たちを通してその向こう側に見える世界の姿である。したがって、事実とはいいがたい。だが事実を越えた真実ということもあり、そのどれもが、法昌寺毘沙門講がなければ生まれてこなかった物語だ。
 結果として、この連作ほ老人小説とでもいうような悲話哀話ばかりになってしまった。この悲しさを毘沙門天が救ってくださるようにと祈りつつ、私はこの作品集を日照山法昌寺に捧げる。

   二〇〇六年五月 初夏の香りしはじめた東京にて
初版発行:2006年6月30日
発行所:株式会社アートン
価 格:1500円+税
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立松和平の日本動物紀行

あとがき
 森の中で、ふと何ものかの気配を感じることがある。気づいていることをさとられないよう、私はゆっくりとそちらに身体をまわす。すると幹の間からシカがじっとこちらに向けている瞳の光と視線が合う。私が見返すと、充分な距離がある場合には、シカもこちらを観察している。そんな時、私は同じこの地上に生きて在るという共生感のようなものを、深く感じるのだ。そんなふうにして知床ではエゾジカを、日光ではニホンジカを見る。
 知床の奥地の番屋で、私はしばしばヒグマを見る。そこではお互いに深く干渉しあわない人とヒグマとの共生関係ができているから、それぞれがただ風景の中にあるべき姿で存在している。漁師たちは漁の仕事をし、ヒグマは餌をとったり遊んだりしている。つまり、お互いの日常生活をしているのである。ヒグマの様子を見ていると、ただ幸せに生きたいと願っているのがわかる。ヒグマの幸福は、食べるものが余るほどあって飢えることがなく、子孫を適度に残すことができて、恐ろしい外敵もいず災害もなくて平穏な生涯が送れるということだ。それは人もまったく同じである。
 ヒグマはヒグマの生涯を送り、シカはシカの生涯を送って、人は人の生涯を送る。ヒグマはヒグマとして生きて死に、人は人として生きて死ぬ。ヒグマもシカもそうやって生死を通っていくのであるが、人が人として生きて死ぬとはどういうことなのかと、私はいつもそのところで立ち止まる。人が人として生きるということが、他の生物にとっては攻撃的で過剰な人間自身にとっては、まてとに困難なことである。
 野生動物を見るとは、そんな問いをいつも自分に返すことなのだ。
 そのつど必要に迫られて書き継いできた文章を改めて読み直すと、私は日本列島で実に様々な野生動物と会ってきたことがわかる。旅をしていると、そこに野生動物がいるからである。野生動物ばかりでなく、人の必要で人に飼われている動物たちも、もちろんそれぞれの感情を持って生きている。それらすべての生きものの願いは、幸福になりたいということだ。
 幸福になりたい私は、また多くの命を食べてもきた。本書はその記録集のような趣きも持っている。あらゆる生物の宿命は、食べる食べられるの植物連鎖の中に組み込まれていることだ。そこにはきれい事ではない、冷徹な現実がある。私たちはそのことも噛みしめつつ、食べなければならないのだ。
 本書は佐藤徹郎さんが私の書斎にきてあっちこっちのファイルから抜き出して編んでくれ、日経BP社の黒沢正俊さんが本に仕上げてくれた。『日本動物紀行』という一貫したテーマで一冊が編みあがったことに、正直、私は驚いている。マジックを見るような心地さえした。そうはいっても、これらは私が一字一字を万年筆を走らせて書いた文章なのである。
 こう書いてみて、私はペンで狩猟してきたような心地がしたのであった。見るだけの、殺さない狩りである。
二〇〇六年初夏               麦秋の知床にて
初版発行:2006年6月19日
発行所:日経BP社
価 格:1600円+税
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立松和平の旅する文学

エピローグ
 洋々社社主梅田鉄夫氏と夜の大塚の町を歩いていて、その時はお互いに高揚した気分の中にあり、長い付き合いなのにいっしょに仕事をしたことがないなあという話になった。梅田氏とは毘沙門講の仲間である。毘沙門講とは我が畏友福島泰樹和尚の法昌寺に毎月三日に集まり、下谷七福神の毘沙門天の前で講をする。講とは法華経を声を合わせて読誦し、その後近くの酒場に席を移して直会(なおらい)の大宴会をする。二月は下町一帯を寒行してまわる。江戸の下町の風情ある講を、もう十五年以上もつづけているのだ。
 洋々社社主や私やほかの毘沙門講の面々が夜の大塚を歩いていたのは、深いわけがある。どういうわけか下谷法昌寺の毘沙門講に大塚の芸者衆が顔を出すようになり、一人増え二人増え、あなどれない人数になってきた。芸者衆といってもほとんど脱サラの女性で、法昌寺でも片隅に坐り、直会の席でも控え目にしている。これは一度大塚に表敬訪問に行かねばなるまいと男衆八人ばかりで相談をまとめ、お座敷を持ったしだいである。和尚は率先して先頭に立っていたが、当日ちょうど葬式がはいって出席することができなかった。
 二時間ほどの東京大塚芸者衆とのお座敷を楽しみ、身も心も高揚して大塚の裏街の路上に出た時、洋々社社主と私は本を出版しようという話に盛り上がったのだった。
「我が社には我が社の志がありますから、文学の本にしましょう」
 社主は高らかにいい、私も負けずに高らかにいう。
「望むところです。すぐに原稿をまとめて送りましょう」
 こうして話はすぐそばの大塚駅に着く前にまとまりはしたのだったが、それから先が長かった。私がなかなか手をつけなかったのだ。深い理由があるわけではなく、日々の喧騒の中に巻き込まれてしまったのである。
 その間に洋々社のほうでも事情があり、海外旅行関係の仕事をしている娘の梅田香世さんが会社の仕事を引き継ぐことになったので、今度の本の編集を彼女にまかせたいということであった。社主にとっても後継者ができたということで、喜ばしい限りである。私に異存があるはずはない。
 そんな機会に私はすぐ原稿を整理して渡してしまえば問題はないのだが、またぐずぐずしてしまった。それでも親子は無言でじっと待っていてくれたのだ。
 なんとか原稿を渡すと、私はすぐ私の事務所に親子の訪問を受けた。私は文学に関わるエッセイをより抜いて渡したつもりだったが、担当編集者は「旅」をキイワードにまとめたいといってきた。文学論集のような本にしようとの固定観念があったので私はいささか混乱したのだが、香世さんは旅行の専門家たる仕事をしてきたのだし、私の作品に旅の香りをかいだのだろう。いわれてみると、主に取り上げた開高健も林芙美子もヘミングウェイも、旅から旅へと明け暮れた作家である。
 その上で香世さんはこういった。
「旅というテーマで核になる作品がほしいんですが」
「それなら旅日記をたくさん書いています。ほとんど未発表ですから。金子光晴に関わる旅の日記がありますよ。おまけに私には珍しい詩まで書いてるんです」
 まったく理由のない自信をみなぎらせて、私は書架を探す。珍しいところに旅に出かけると、私はノートに日記をつける。次から次と生起しては通り過ぎていく風景や出来事を、忘れないようにするためである。金子光晴に関わる旅の日記は、NHKにかつて「世界・わが心の旅」という一時間番組があり、その取材でマレーシアに訪れた時のものだ。テレビ番組とはいえ、もちろん私の内的必然性から企画され実行された旅である。その文章のタイトルは「『マレー蘭印紀行』紀行」である。
 香世さんは若い女性らしい繊細な感受性によって、ていねいに本書を編んでくれた。香世さん自身が一字一字パソコンのキーをたたいて、手作りでゲラをつくってくれたのである。私も原稿用紙に一字一字ペンで書いているので、結局全体では手づくりで編み上げた本といえるだろう。
 それぞれの本には本来持っている運命と出会いとがあるのは当然だが、大塚の薄暗い裏路地で怪しい遊びの果てに親父同士がぼそぼそと取り決めた本がここまで明るく育っていくとは、誰が想像することができたろうか。きっとこの本自身は喜んでいるに違いなく、私も大喜びなのである。

 二〇〇六年二月 日本中大雪の日に東京にて
初版発行:2006年5月8日
発行所:株式会社洋々社
価 格:1600円+税
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「立松和平日本を歩く」編者として

黒古一夫
「時代の目撃者」として、常にこの時代や社会と切り結んで作品を紡ぎ出してきた立松和平は、また同時に今ある「自然」や「人々の暮らし」、「生命の在り方」を凝視(みつ)め、それらと共にあることを信条としてきた作家である。
 まだ無名であった早稲田の学生時代から国内外の各地を歩き始めた立松和平にとって、「旅=非日常世界」は書くこと=小説と同義であり、「歩く」ことがその精神において「書くこと」に繋がるものであった。その意味で、立松和平の書く「紀行文」は、その旺盛な創作活動と同様に、彼の思想や自然観・歴史観を如実に反映するものに他ならない。
 今回「全七巻」にまとめたものは、そのような立松和平のその都度求められて書き綴ってきた「紀行文」のほとんどを、「地域(都道府県別)ごと」・「年代順」に整理し直したもので、いかにこの日本が「多様な文化・自然」を持っているか、立松和平がそこに何を見たのかが一目で分かるようになっている。これを見て、日本も捨てたものではない、こんなに素晴らしい世界があったのだ、と改めて思ってもらえれば幸いである。
全7巻同時発刊:2006年3月
発行所:勉誠出版
http://www.bensey.co.jp
tel:03-5215-9021
価 格:各巻2600円+税
セット価格:7巻18200円+税
1北日本を歩く
2関東を歩く
3中部日本を歩く
4西日本を歩く
5知床を歩く
6沖縄・奄美を歩く
7東京を歩く
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知床 森と海の祈り

あとがき
 知床にいて、エゾシカやヒグマを見るのはそんなに困難なことではないのだが、他の土地では珍しいそれらの動物と出会った時でも、森のいつものたたずまいを前にした時でも、また満月の光が降り注いでいる海に向かいあった時でも、道元の言葉が響いてくると感じることがある。
 本文にも引用したのだが、原文から翻訳すると、このような意味の言葉となる。
「人がさとりを得るということは、水に月が宿るようなものです。月は濡れず、水は破れません。月は広く大きな光なのですが、小さな水にも宿り、月の全体も宇宙全体も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿るのです。さとりが人を破らないことは、月が水に穴をあけないことと同じです。人がさとりのさまたげにならないことは、一滴の露が天の月を写すさまたげにならないのと同じことです」
 『正法眼蔵』のうちの「現成公案」の巻に書かれている、あまりにも有名な言葉である。
 この言葉をいつも心の内に響かせ、私は海や山に向かって立つ。私は認識する一滴の水である。この水滴は風にも吹き千切れるのであるが、月の全体も、全宇宙も呑み、なお余りある。底知れぬ容量を持った器なのである。認識というものは、そういうものだ。
 私は知床の山河に向かって立つことが多い。最初はあまりの壮大さに言葉をなくしていたのだったが、道元の力をもらって私は認識する一滴なのだという自覚を持って以来、この山河を語ろうという意欲を持つようになってきた。
 この一滴は、風にも吹き千切れる弱きものではあるにせよ、全宇宙を呑んでもなお余りある深さがある。この深さは、もちろん道元が与えてくれるものだ。
 知床に通うことが私の人生なのだが、こうして認識を重ねることが、また私の人生であるのだ。『正法眼蔵』は相手の機縁によって、どのような実相でも見せてくれる。
 森や波を前にし、そこに棲む植物や動物たちを眺めても、諸行無常としてただ漫然と過ぎていくばかりだ。しかし、そこに道元の言葉を味わいつつ風景に接してみれば、世界のありようはなんと変わることであろうか。これは人生が豊かになるということでもあるのだ。
 困難さを百も承知で、これからも私は『正法眼蔵』を片手に、知床の森にはいり、知床の海に船を出すだろう。それはなんと楽しみに満ちたことであろうか。

   二〇〇五年師走の東京にて
初版発行:2006年1月15日
発行所:株式会社春秋社
価 格:1700円+税