人生の現在位置
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 とぼとぼと歩きつづけりてきて、今どのあたりを歩いているのかよくわからない。いつも迷っているのである。ある時、私はロンドン郊外の大きな公園を歩いていて、迷ったことがあった。それでも歩いていくしかないので先に進んでいくと、道傍に地図があった。地図上に赤い点が打ってあり、こう書いてあちた。
「YOU ARE HERE」
 君はここですよということである。この地図によって、私は迷いから脱したのである。なおも歩いていくと、また同じ地図の看板があり、赤い点の位置がずれている。私の現在位置が変わったのだ。
 とぼとぽと歩きつづけている人生の現在位置というのも、このように地図があれば、自分が今どこにいるのかよくわかる。いつしか私が法隆寺で行いをし、また道元を書くため永平寺に参籠(さんろう)や参禅をするようになったのは、人生の現在地を確かめるためではなかったのか。もちろんその目的のためにいくのではないのだが、足繋く通ってみて、「YOU ARE HERE」の場所が変わっていることに気づくのである。
 道元の『正法眼蔵』は難解な書物だ。しかし、何度も読み返していると、時々氷解するように理解がおよぶことがある。そんな瞬間こそ、あの地図の中の赤い点の位置が大きく変わったことが実感できる。
『正法眼蔵』は言葉の無尽の宝庫である。私が『法隆寺の智慧 永平寺の心』を書いた実感についても、まるで道元はすべてを承知しているかのようにこう書いている。「弁道話」の一節である。
「草や花や山水にひかれて、仏道に流れ入ったということもある。土や石や砂や小石を握って、いつの間にか仏の印形を身につけていたということもある。まして真実を説いている広大な文字は、すべての現象の上に書きつけられていて、なお余ってなお豊かである。真実を説くすべての説法は、また一微塵の中に完全におさまっている」
 私はこのような言葉に魅かれる。在家の人間として俗にまみれて日々の暮らしを送りながら、縁をいただいて私は永平寺に参禅にいき、正月には法隆寺に千二百年以上もつづいている金堂修正会のために参籠する。永平寺は道元禅の清新な気迫に満ち、法隆寺は聖徳太子の原始仏教の香りを残す撥刺たる意欲にあふれている。「慕古心」(もこしん)という言葉があるが、決して古びることのない精神が過去から未来に向かって凛として貫き通っていることを感じるのである。そして、その中に私は静かに坐していたい。
『法隆寺の智慧 永平寺の心』は、私の仏道修行の記録である。人生の現在位置を確かめる探究の旅の記録といってもよい。
「波」新潮新書2003年11月号

援助ということ
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 10代の若者たちと話し合う機会を持った。NHKのテレビ番組「真剣10代しゃべり場」で、50歳代の私はゲストという立場であった。30歳以上も年の違う若者たちと言葉が通じ合うのかという不安を持ちつつ、収録のスタジオにはいった。
 その日のテーマは、贅沢(ぜいたく)をやめて開発途上国に援助をしようというのである。そのテーマを提案した高校生には、自分は欲しいものは親になんでも買い与えられ、何不自由なく生活し、小遣いも荒い使い方をしてきたという自覚がある。修学旅行でタイにいき、考え方が変わったという。貧しい身なりをした子供たちが物売りをしていて、普段の自分の暮らしぶりの安穏さを深く反省した。
 彼は贅沢をやめることを決意し、ゲームセンター通いをやめて、毎月5000円の小遣いのうち3000円を途上国に学校をつくるボランティア団体に寄附している。それからベトナム戦争で難民として国外に脱出した人たちの子供に勉強を教えるという、ボランティアへの参加をはじめたのである。
 彼の主張は、自分たちの贅沢に目覚めて、生活を切り詰めても、貧しい人たちに援助したらどうかということである。いっしょに修学旅行でタイにいった同級生たちは、目の前にある貧しさを見ようとせず、もっとよい国にいきたかったとさえ発言したという。同級生たちは金があれば自分が欲しいものを片っ端から買い、時間があれば遊んでいる。そんなことをしていないで、貧しい人を少しでも助けたらどうかという提案である。
 10代が行動を起こして、世界を変えたいと彼はいう。政府間の開発途上国後助のためのODAに頼るのではなく、国民一人ひとりに援助する担当国を決め、学校や病院などのインフラ整備のための募金活動をする。たとえば金持ちは自由になる金の半分、中流は自由になる金の4分の1、生活にぎりぎりの人は、ジュース1本我慢したりコンビニの募金籍に100円いれるとかすればよい。

物質的豊かさが幸福なのか

援助を義務にしたらどうかという提案には、さすがに残り10人の若者たちは反発した。
 「親に小遣いをもらっている身では、他人の援助どころではない。自分が自立してから援助すべきである」
 役者志望や漫画家志望や19歳で母親になった若者は、「生活がぎりぎりでとても他人に援助する余裕はない」「開発途上
国の実態がよくわからず、お金をあげてもどこに使われるかわからないので、募金もボランティアもしたいとは思わない」「本を読んだり、映画を見たり、デートをしたりすることが自分の成長のためには必要で、そのお金を犠牲にはできない」「生活費は自分で稼いでいるが、お金を稼ぐことは大変なので、自分のために使いたい」
 こんな意見が飛び交った。私はなるべく発言は控える傾向のほうに身を置こうと思った。それでも討論番組なのでいうべきことはいわなければならない。開発途上国は貧しいという一方的な図式がまず気になる。物質的な豊かさがあれば、幸福になれるのだろうか。ベトナムの子供たちのうちには物売りをしている子もいるだろうが、多くが瞳をキラキラさせているように私には思える。
 一方、日本の子供たちはどうか。瞳をきらめかせて飛びまわっている子供など、ほとんど見かけない。学校や家庭からの重圧で、なんとなく沈んだ顔をしている。学校があってもいかない子供の多い日本では、誰にも明るい未来があるとはとても思えないのである。物質的に貧しいから不幸だという短絡に、違和感を持ってしまう。そう感じるのは私が大人だからで、短絡して本質に向かうのが青春の特権ではある。
 私も加わった議論は、あっちに傾き、こっちに転んだ。とどのつまり、人のために何かをしてやろうという気持ちは多かれ少なかれみんな持っているということである。だが強制的に提助をすべきだという考えには、多くの若者たちが反発するのである。それは実に健全な精神だと思う。そのような精神のバランスを若者たちに感じることができたので、私は幾分は安心もした。

へつらず驕(おご)らず

 人を助ける、援助をするということは、するほうもされるほうもデリケートで、まことに難しいことなのだ。捷助をされたからといって、へつらわず、むさぽらず、するほうも驕りになってはいけない。金持ちが貧しい人に物をやればいいというような、単純なことではない。
 そんなことを真剣に議論することができて、私は楽しかった。
聖教新聞2003m年11月27日(木)

野球の原点回帰
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 大阪駅の瑞にある通路を歩いていると、ラジオの野球中継の声が響いてきた。その通路は半分に段ボールがならび、ホームレスの家になっている。毀ポールの家のところどころに足が見え、人が寝転がってラジオを聞いているのだった。
 ラジオは阪神対ダイエーの日本シリーズ第5戦で、甲子園で戦われていた。甲子園にはいくことができず、段ボールの家のラジオでひそかに戦況を追っているという感じだ。
 その日遅くに大阪にはいった私は、なんとなくあおられるようにして予約していたホテルにチェックインし、部屋にはいるやテレビをつけた。
 阪神が3対2で勝っていて、八回裏ノーアウト二塁三塁、ここのところ3試合連続本塁打を放った金本が、、バッターボックスにはいっていた。外野フライでも1点になる。絶好調の3番金本であるから、最低1点はとれると思っていたら、内野ゴロで一塁アウトであった。次は4番桧山である。その日桧山は逆転タイムリーヒットを打っているから、外野フライぐらい打てるだろうと安心して見ていたら、浅いレフトフライだ。これではタッチアップしても、三塁ランナーはホームベース上で憤死である。その後、沖原もあえなく三振で、結局点をとれなかった。
 チャンスを逃した後はピンチがくる。たった1点差なのだから、阪神は危ないぞとはらはらしていたら、クローザー(抑え投手)のウィリアムスがダイエー打線を3人で討ち取った。阪神は辛くも勝利し、福岡で2連敗したあと、甲子園球場で3連勝である。
 「(甲子園で)三つも勝っちゃった。必ず向こうで胴上げして帰ってきまーす」
 勝利監督としてインタビューを受けた星野監督が、テレビの中で叫んでいた。一言いうたびに、スタンドの大観衆がどよめいて揺れる。
 私は堂々というが、にわか阪神ファンである。快進撃をはじめた春頃から、心の中で阪神を応援している。どうしてこんな気持ちになったのかといえば、阪神の野球がおもしろいからである。きた球を、力一杯打つ。そんな当たり前の野球をしているように感じられるからだ。頭の野球ではなく、魂の野球だからだ。貧血していた日本の野球に、熱い皿を甦らせた。すべてに停滞した日本が甦るには、熱気を取り戻すことだと教えてくれているからである。野球にIT(情報技術)はいらないだろう。
 アメリカの大リーグのワールドシリーズも、目が離せなかった。松井が活躍しているからヤンキースの試合が中継され、日本でも観戦することができる。大リ−グの野球は力と力のぶつかり合いで、心理的な細かなかけひきもしているのだろうが、そのようには見えない。ピッチャーはできるだけ速いボール、できるだけひねくれたボールを全力で投げ、打者はそれをフルスイングのバットでひっばたく。単純明快なのである。
 ID野球と称し、できるだけデータを集めて相手を分析し、作戦を緻密(ちみつ)に練って相手の裏をかいたりする。野球はだまし合いの様相を呈し、ますます複雑になる。私たちの現実の生活に近くなっている。しかし、だまされたら気持ちのいいものではないし、だまして勝ってもなんだか後味が悪い。やればやるほど陰気になってくる。そんなことよりも、力と力とが正面からぶつかり合う大リーグの野球がおもしろいと、私たちは知ってしま
ったのだ。
 たかが野球なのである。難解にして貧皿してしまっても、おもしろいことは何もない。阪紳タイガースとニュ−ヨーク・ヤンキースと、見ていて気持ちがよい。今年は野球が原点に戻っていく元年になればいいなと私は思う。
 第5戦で阪神が勝ったのを確認した私は、せっかく梅田にいるのだからと、散歩をすることにした。甲子園に応援にいった連中が帰ってきてもいい時刻なのに、阪神のユニホームを着てメガホンを持った人たちは、ラーメン屋の行列にならんでいる数人を見かけるぐらいであった。多くはミナミの道頓堀のあたりにいくそうである。
 「リーグ優勝した日、道頓堀まで客を乗せていったうちのタクシーが、囲まれて屋根に登られて、ぼこぼこにされました。タクシーは16台壊されました」
 翌朝乗ったタクシーの運転手に聞いたことである。阪神が勝って、ストレスを発散している連中もいるのだ。
 こんなことさえ、熱い皿をこの国に取り戻したいのだということへの、歪んだ衝動ともとれる。
聖教新聞 2003年10月30日(木)

小さな利益のために失うものがある
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 子供をめぐる犯罪がたびたび起こる現代である。多くの場合は子供が被害者となるいたましい事件なのであるが、ひとつ深層にはいればそれほど単純ではなくなる。要するに、よくわからないことが多いのである。
 親と子の関係も、背景に持っている価値観がずいぶん違うので、会話が成立すること自体が困難なのだ。親が自分の意見を通そうとすれば、押しつけになる。親と子とは、世代の関係である。今日のように変化の激しい時代は、親子関係を構築するのがまことに難し
い。
 子供は小さいうちは自分の意見もなくて、親の保護のもとにある。そんな時期に、親が子供を汚いやり方で使っている例をこの目で目撃したのは、もう10年も前のことである。
 私は東京駅で東北新幹線自由席乗り場の列にならんでいた。席の数の割に列は長く、座るのはもうほとんど不可能であった。私は故郷の宇都宮までいくのだから、立っているといっても1時間ほどである。こんな日もあるだろうという程度の考えであった
 車内清掃が終わり、一旦閉じたドアが再び開き、ホームの列が動きだそうとする一瞬、まわりにいる誰でもがわかる出来事があった。小学校低学年の女の子が一人、列の先のほうに横から加わり、そのまま車内にはいっていった。女の子が3人掛けの座席に週刊誌や新聞紙を素早く置くのが、窓の中に見えた。それから女の子はホームの列の誰かに向かって、両手でピースのサインを送ってきたのだった。
 まわりの人も、また私も、何があったのかよくわかった。順番に座席は人で埋まっていき、私は予定どおり通路に立った。
私はこの女の子がどのような大人に囲まれているか知りたくて、すぐ脇に立ったのである。
 「××ちゃんのおかげね」
 「よかったね、お母さん」
 小声でいう母と子のらしい会話が聞こえた。奥の窓際が女の子、真ん中が母親らしい中年女、通路側が父親らしい中年男である。父親は実はみんなに見破られているのを知っているのか、スポーツ新聞を顔の前にひろげていた。実際、車内中の視線がこの3人に向けられていたのだ。女の子こ母親は顔の表情を殺し、居直ったようにしていた。
 私には私なりに内面の葛藤(かっとう)があった。この親子の不正をさりげなく注意してやるべきだろうか。もっと強く糾弾(きゅうだん)すべきだろうか。もし親子が反撃をしてきてへ証拠をだせといわれたら、どうすべきか。論争になったとして、車内の何人が私の味方になってくれるだろうか。その場にいる全員が、私と同じように葛藤をしていたにちがいない。
 結局のところ、誰も何もいわなかった。苦い思いを噛みつぶしながら、現状を肯定してしまったのである。電車は動きだし、不正があったのだという気分もしだいに薄らいでいったのだった
 あれから似たようなことを、私は何度か目撃した。そしてそのたび、苦い思いの中に自分を沈めるようにして、黙ってきた。不正を糾したとしても、私はそんなことができるような立派なことをしているだろうかとの思いが、戻ってきてしまうのだ。
 大人にまじって先に車内にはいり、両親のために席をとった女の子は10歳ぐらいだったから、今は20歳ぐらいになっているはずだ。あの3人は親子関係をうまく結べているだろうか。まわりの人に見られていると知っていながら、相手の弱みに付け込むようにして公然と不正をする子供に育てて、親は電車の席を得て小さな利益を自分のものにするかもしれないが、もっと大きなものを失うのである。
 この子は自分の利益のためなら、自分の親を裏切るなどなんでもない人になっているかもしれない。3人が3人とも手のつけられないほどのエゴイストになり、家族としてやっていくことは不可能になる。車内のまわりの人たちは、この3人を見て見ぬふりを
しながら、想像を逞(たくま)しくて、自己の合理化をはかったのである。10年も前の出来事を思い出しつつ、こうして原稿を書いている私も、同様である。
 恐ろしいことは、このような子供の使い方をしばしば目撃し、なんの葛藤も感じなくなってしまった自分を、感じることである。
聖教新聞 2003年9月25日(木)

今、植村直己さんがいたら
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 冬のアラスカでマッキンリーを眺めながら、植村直己さんのことを考えたことがある。麓でさえ零下二十度とか三十度になるのに、あの氷の山に単独行で登ろうというのは、私などには憧れにすぎない。冬のマッキンリーは、これから先も永遠に植村直己さんの墓標でありつづけるであろう。そう思った。
 植村さんは人の行けないところに、どうしてあんなに一生懸命に行こうとしたのだろう。ゴジュンバ・カン初登頂、エベレストの日本人初登頂、五大陸最高峰世界初登頂、北極圏一万二千キロの旅、世界初の北極点犬ゾリ単独行、グリーンランド犬ゾリ単独縦断と、どれもこれもがすさまじい旅であったろう。最後の旅として南極大陸犬ゾリ単独横断をしようとしたが、アルゼンチンのフォークランドで戦争があったため、その前にマッキンリーに登山して消息を絶ったのだ。どうしてこんなにも苛酷な人生を歩もうとしたのかと、たいしたことないアウトドア生活しかしていない私は、不思議にも憧れにも思うのである。もっとも、植村さんにくらべれば、すべての人がたいしたことはないともいえる。

蝕まれた自然を回復する新たな冒険へ

 南極大陸犬ゾリ単独横断をしてしまったら、地球上でもう行くところはなくなったと思われる。そのあとは子供たちのための野外学校を設立したいとの夢を持っていたらしいのだが、そこに身を置いて植村さんは心を落ち着けることができただろうか。野外学校で野山や川や海を歩くと、目をおおいたくなるような自然破壊が次から次と前に現われてくる。そんな場所を植村さんは黙って通り過ぎていくことはできないのではないだろうか。
 次の世代の冒険心を育てるためには、技術を教えることも大切だが、肝心の自然がそれに耐えられなければならない。今の日本に冒険心を育てる自然がどれだけ残っているかと考えると、私などは心寒くなってしまうのである。
 一人で冒険をしていればよいという孤高の時代は過ぎて、植村さんはその冒険を支えてくれた自然の回復へと向かったのではないかというのが、私の心楽しい想像である。野外学校の子供たちをひきつれての、植村さんの活躍があちらこちらで聞かれたのではないだろうか。
 私はカヌーィストの野田知佑さんが校長先生をしている「川の学校ー川ガキ養成講座」に、年に一回だが参加している。カヌーの野田さんだから川の学校となるのだが、登山家の植村さんなら山の学校になるのだろう。野田さしんは川でさんざん楽しませてもらったのだから、その楽しさを後の世代に伝えようと考えている。川で遊ぶ子供たちを「川ガキ」と愛情を込めていうのだが、川ガキが絶滅危惧種というべき存在になってしまった。学校教育によって川で遊ぶことが禁じられ、川で泳ぎも釣りもカヌーもできない子供たちばかりになった。川遊びをなんにも知らない子供たちに教えるのは大変根気のいる仕事なのだが、それを本気でやろうとしている野田さんに、私やほかの仲間たちは協力を惜しまないのである。
 植村さんが生きていたら、一つ前の世代の子供なら誰でも持っていた山に対する感覚が失われていることに、危機感を持ったのではないだろうか。現在の登山は、多くが中高年者で占められている。子供たちの姿を見ることは、ごく稀である。そこで植村さんが構想した野外学校が必要になる。世界の川を漕いできた野田さんが最高の先生であるように、五大陸最高峰を世界初登頂し、命ぎりぎりで世界の極地を冒険してきた植村さんには、その体験をじかに次の世代に伝えてほしかった。

植村さんとともに足尾の山に木を植えたかつた

 もし植村さんが生きていたら、私は山の植林に誘いたい。五大陸の最高峰を私は知らないが、身近な日本の山が荒廃していることなら知っている。その荒廃した山での植林活動は、大人にも子供にも最高の野外教室なのである。
 私は植村さんに足尾での植林活動に誘いたかった。足尾の山々は植村さんが登るようなところではないかもしれないが、奈良時代から修験者たちが駈けて修行してきた山である。その深いはずの山が、明治時代になってからの鉱山開発によって、草木一本なくなってしまったばかりか、表土さえも流出してしまったのだ。ここまで破壊された山は、自然の治癒力だけではとても回復しないのである。
 その山に苗と土と唐鍬(とうぐわ)とをかついで登り、木を植える活動を、私は九年ばかりやっている。荒地に木を植えることは、自分の心にも木を植えることだと、活動すればみんなが知るところである。岩ばかりになってしまった山に緑を回復する活動は、いつ終了するとも知れない行為なのだが、これは未来に向かっての冒険といえないだろうか。
 もし私が今日のこの時代で植村直己さんと知り合うことができたとしたら、足尾のハゲ山に苗や土をかついでいっしょに登りながら、野外学校の子供たちを引きつれて木を植えたかったと思うのである。
アドベンチャーフォーラム 2003年9月

凶作の夏
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 宮沢賢治に寒い夏の不安にただ黙々と身体を動かすという意味の詩があるが、今年の夏もそんな異合である。どうしても私は、10年前、1993年の凶作の夏を思い出さないわけにはいかない。
 あの年は出穂期(しゅつすいき)になっても低温がつづき、明日は晴れる、明日は晴れると希望を抱きっつ、8月になっても淡い斯待は打ち砕かれつづけてきた。日照時間不足と低温のために花が咲かず、咲いても受精しない。
 稲の花は朝のうちの数時間しか咲かず、まことにか細いものである。まるで埃(ほこり)のようでさえある小さなものなのだが、稲の命はここにある。この花が受精し、籾の中に米の栄養分をためていくのである。
 1993年の時は、私は宮城県の七ケ宿で米づくりをしていた。蔵王山麓の高地にある田んぼは、低温障害をまともにうけた。出穂して籾の先に花が咲こうとするその時期に、寒さにやられてしまった。花らしいものは咲いても、受精しない。籾はできたのだが、上から指で摘んで押すとへこみ、中は空っぽである。コンバインで収穫すると、一応籾はとれるものの、中身はない。くず米がわずかにとれたばかりで、収量はほとんどゼロといってよかった。
 どうも今年は、10年前と同じことが起こる気配が濃厚である。つまり、 10年に一度ぐらいは不作になると考え、その備え をしておいたほうがよいということである。
「夏のはじめ頃、スイカはたくさんできたんだけど、まったく売れないのす。寒かったからなあ。それで農家はまず困ったのす。それから低温がずっとつづいて、米は約3割の減収でねえか」
 山形で有機農業をする友人はいう。ふだんから化学薬品はまったく使わず、作物を健康な状態に保つことを心掛けているその人にしても、異常気候には勝てない。山形は微妙な位置にあり、それより北の岩手や青森では冷たい山からの風のヤマセが吹き、今年の米の収穫は絶望的だという声が届く。
 「風評被害には気をっけなくちゃなんないべ。何が駄目だとなると、一斉そういうことになって、誰も買ってくれなくなる」。私の故郷の宇都宮で梨づくりをする友人がいう。梨が駄目だというレッテルが張られると、ただもうそういうことになる。今年の梨は確かに小粒であるが、食べると甘い。今年はこのような個性の梨が実ったと考えるべきで、農作物すべてに同じことがいえる。なにも規格品をつくる必要はないのだ。
 お盆の休暇で故郷に帰っている時、私は地方新聞に広告がのっているのをよく見た。
 「栃木米買います」
 米穀商がすでに米の確保に走りはじめている。今のうちに在庫をしておけば、米パニックになっても商売ができると考えているのだろう。
 10年前の米パニックでは、日本人の堪え性のなさが露呈された。緊急輪入されたタイ米が、口にあわないからといって捨てたり、午の餌として「10円で売ったという話が、いかにも得意そうに伝わってくる。
 確かにタイ米はインディカ種で、ジャポニカ種ほどの粘りはないのだが、好みが違うからといって捨てるという感覚が、あまりに傲慢である。私はタイ米が好きだ。いつもと違った米が食べられるということが、楽しみでさえあった。私はあっちこっち旅をしているからだとある人にいわれたが、インデイカ種はさらさらした米なのだから、高級とかそうでないとかの差の話ではないのだ。土を耕して一粒一粒収穫する米は宝であり、どれも貴いのである。
 10年前の凶作の時の教訓は、そんなに国産米が食べたいのなら、そうできる環境を整えるべきではないかということである。もちろん一部では耐寒牲の品種の稲をつくり、気温の変化に耐えられるよう、田んぽを深水管理する。そして、何より冷害に負けない土づくりをする。しかし、収量を増やすことのほうに目が向き、足腰のはうはどうもおろそかになりがちなのである。
 10年前と違い、食管法はまったく機能しないから、米はすべて民間の自由取引にまかされるのだろう。もし凶作になったとしたら、どんな社会現象があらわれてくるのか、不安である。
聖教新聞2003年8月28日(木)

50代の生き難(がた)さ
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 タクシーを止め、東京駅丸の内口にいってくださいと頼んだ。すると運転手は身を乗り出して私のほうに向き直り、すまなさそうにしてこういう。
 「すみません。道がわからないので、教えてください」
 どこからであろうと東京駅にいく道がわからないとは、タクシーの運転手としては潜りというものであろう。私とすれば新幹線の電車に乗る時間があるのであまりまごまごしていることはできない。
 「とりあえず、ここまっすぐいってください。教えますから」
 私がこういうと、運転手はほっとした表情をするのであった。
 「道がわからないと正直にいうと、急いでいるから別の車に乗るといわれるんです。みんな自分の都合があるから、仕方ないですよね」
 いかにも人のよさそうな顔をして運転手はいう。問わず語りに話してくれたところによれば、年齢は50歳で、タクシーに乗務しはじめて1週間だそうだ。松戸に住んでいて、毎朝5時に起きて会社には6時にいき、車を洗ったりしで、7時に車庫を出発する。今は昼間だけの勤務である。夜は酔う払いが乗るので、客あしらいの自信がなく、昼間勤務にしてもらっているのだそうだ。
 「東京駅でぽくは降りますから、そしたら客はいるでしょう」
 私がこういうと、またもや運転手は自信なさそうにいうのであった。
 「私は駄目です。東京駅にはライバルが多くて、何時間もならばなければなりません。田舎からでてくる客が多いから、道がわかりませんじゃあ、お互いに困るでしょう。東京の人を狙って、もっばら流しをしています。およそ9割の入は親切に道を教えてくれますが、1割は悪いけど急いでいるからって降りてしまいます。仕方ないですよ。売り上げも会社で一番下ですはど、今は勉強の期間ですから」
話せば話すほど実直な人だとわかる。彼は福島県いわき市でごく最近まで調理師をやっていたそうでる。年々給料が下がり、プライドも保てなくなって、思い切り東京にでてきた。東京なら調理師の仕事はいくらでもあるだろうと思ったら、アルバイトしかない。給料はもっと安いのである。
 そこで一念発起して包丁を捨て、タクシーの乗務員になることにした。リストラにあったりして他の業界からの失業者を吸収するのは、中高年にとってはタタシー業界しかない。1カ月半勉強し、ようやく2種運転免許を取得した。地図の試験などもあり、東京の地図を頭で覚えはしたものの、実際に走ってみるとまったく違う。
 「会社の寮に住んでるんですけど、月給が20万円にもならないから、家内は呼べません。家内はいわきで働いています。子供は自立して、家内と二人だけですから、なんとかやっていけると思ってたんですけど」
 私が道順を完全に教えて、ようやく東京駅丸の内側に着いた。クレジットカードで支払うむね乗った時から伝えていたのに、機械の操作を間違ってどうにもならなくなり、結局私は現金で支払ったのである。
 いくら善良であっても、あの人はこれから東京で生きていくのは大変だなあと、思わないわけにはいかない。2、3年もすれば自信に満ちてどの道でもすいすいと走っているだろうか。それともまったく別の仕事についているだろうか。彼より5歳上の私にとって、人ごとであるはずがない。
 ようやく間にあった新幹線で電車の座席に座り、新聞をひろげると、1面のこんな見出しが目に飛び込んできた。
 「『経済苦』自殺7940人 昨年50代男性が急増 総数も5年連続3万人台」
 昨年1年間の自殺者は3方2143人で、前年より約3.5%増加し、78年に統計をとりはじめて、3番目に多く、3万人を超えたのは5年連続である。「経済・生活問題」が動機とみられる自殺者は大幅に増え、増加率では50代男性が最も高く、不況の探刻さがここから見える。負債、生活苦、事業不振、失業、就職失敗、倒産が自殺の動機となっている。
 本来なら社会の中心になるべき世代が、こんなに苦しんでいる。一見自由に見えて、その実生きることがこんなにも苦しい時代はかつてあっただろうか。
聖教新聞2003年7月31日(木)

100万人のキャンドルナイト
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 2003年6月22日は夏至の日であり、昼間の時間が一年間で一番長い。夏の一夜、夜20持から22時まで電気を消して過ごそうという呼びかけが、市民流通団体の「大地を守る会」によってなされた。題して「100万人のキャンドルナイト」という。
 たった2時間電気を消しただけで、いろいろなことが見えてくるだろう。本来、闇(やみ)は美しいものだが、都会にいると、その闇を感じることもできなくなっている。この世の半分の時間は闇なのだから、闇の美しさが感じられる生き方をしたいものだ。
 夏の夜、電気を消してロウソクだけの生活をすると、親子の対話が生まれるかもしれないし、夫婦がますます親密になるかもしれない。親はロウソクの光で子供に絵本を読んでやってもいい。親子でロウソクで風呂にはいると楽しいだろう。もちろん恋人とロウソクの火を間に向き合ってワインでも飲んでいるのもよいだろう。時間の流れが変わるだけで、楽しいことはたくさんあるにちがいない。
 東京電力では原発が完全に動いていないため、この夏は首都圏で電力の供給がストップするかもしれないともいわれている。クーラーが止まるというだけの話ではなく、救命をしている病院などはどうなるのだろう。電力需要を拡大させることばかりを考え、原発などの発電所をどんどん建設してきたつけが、まわってきたのである。それなら電気を使わないことを考えるべきではないだろうか。
 夏の夜に2時間電気を消すとは、これまでの自分たちのあり方に向き合い、未来を考えることである。このままいけばエネルギーの消費量はどんどん上がっていき、地球の温暖化はますます激しくなる。そのことを、たった2時間電気を消すことによって考えようというのだ。
 私も「100万人のキャンドルナイト」の呼びかけ人に名を連ねたのだが、賛同者は日ごとに増えていき、忌野清志郎や浜崎貴司がノーギャラのコンサートまでやってくれることになった。
 環境省のバックアップがはじまると、賛同者は全国的な規模で増えていき、NECグル−プは全社をあげて1万人の参加をめぎしてくれることになった。その夜いっせいにライトダウンするのは、さっぽろテレビ塔、札幌市時計台から、東京タワー、レインボーブリッジ、平城京朱雀門、薬師寺、通天閣、道頓堀グリコネオン、熊本城、首里城など2000以上の施設である。各地のシンボルばかりである。
 当日、東京芝の増上寺がメーン会場である。17時30分から、本堂をステージにした会場で、私は呼びかけ入代表の一人として挨拶をした。3000人か3500人かわからないのだが、境内は人でびっしりと埋めつくされた。忌野清志郎と浜崎貴司のコンサートがはじまると、人はどんどん増えていく。小泉今日子も飛び入りで歌ってくれた。
 無料のコンサートを聴きにきた人もいないわけでもないだろうが、電気を消すというだけのイベントにこんなにも人が来るとは予想外であった。増上寺の本堂の向こう側には、東京タワーがライトアップされて燦然(さんぜん)と輝いている。本当に東京タワーのライトアップが消えるのだろうかと、不安であった。
 20時10分前から、カウントダウンがはじまる。私も再びステージに上がって短い呼びかけと感謝をした。こんなにも人が集まるのだから、この国もまだまだ捨てたものではないとも思えた。
 10秒前から、1秒ずつカウントダウンの声をあわせる。20時きっかりに、すべての照明が落とされる。ほとんど同時に、東京タワーも闇に包まれたのが、闇の底に沈んでいる集まった人たちの間から、ほう−つというどよめきがわき上がったことでわかった。.私は本堂のステージに上がっていたのでわからなかったのだが本掌の瑞にまわり込んで、東京タワーが本当ににライトダウンしているのを見て涙がでてきた。携帯電話で、大阪の通天閣も暗くなったとの連絡がはいった。全国でもどんどんライトダウンされているようである。
 帰路、浜松町駅に向かっていると、グラスの底にロウソクを灯して持って歩いている若い女性二人に声をかけらた。
 「感動しました。いいイベントをありがとうございました」
 私も感動した。2時間でも多くの人が電気を消すという行動に参加してくれた意義は、まことに大きい。
聖教新聞2003年6月26日(木)

花屋に仏壇の花がない
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ある日、買い物から帰ってきた妻が、少し怒ったようにしていった。
 「最近、花屋さんに、仏壇に飾る花が置いていないのよ。バラなんかの派手な花はいくらでもあるけれど。近所に年寄りだっているんだから、白菊をほしい人だっているはずでしょう」
 結局妻は電車に乗って遠くのスーパーにいき、仏壇用の花束を買ってきたのであった。たった1本の白菊を得るために、これは大変な手間である。
 私は都心に暮らしている。もっと詳しくいえば、妻の実家にいるのだ。「サザエさん」の漫画で、サザエさんの夫のマスオさんの立場である。
 この街に住んで20年にもなる。バブルの時代には土地の地上げに激しくさらされ、地価がくんぐん上昇していくにつれ、明らかに街に変化が見られるようになった。私にはいい豆腐屋があるのがいい街だという私的な基準があるのだが、豆腐屋はどんどん消えていった。犬を散歩しがてらに寄り、100円でうまい豆乳を飲ませてくれた豆腐屋もなくなった。
 古本屋、瀬戸物屋、自転車屋が消えた。自転車がパンクをしても、自分で修理をしなければならない。この点だけいえば、山奥にいるのと同じことだ。
 豆腐が食べたければ、再開発によってできたデパートにいけばよい。花を買いたければ、デパートの一画にある花屋にいく。書いていて思い出したのだが、近所にあった個人経営の花屋はいつの間にか消滅していた。デパートの花屋は若い人がマネジメントしているから、バラなど洋物の洒落た花はたくさん置くが、仏壇用の花など野暮ったくて置かないのだ。
 豆腐屋や自転車屋や花屋などの小さな商売は、地代が上がるにつれ成り立たなくなってくる。店は閉じ、壊され、ビルの工事がはじまる。できるのはおおむねマンションである。
 ピルが建ち上がってから、かつてそこにどんな店があったのか、思い出そうとしても思い出せなくなっている。それほどに景観が変わっているのだ。やがてマンションぱかりが建ちならぶ、味わいのない街になってくるのだ。食料はビルの中にあるスーパーかデパートに買いにいく。当然、品物の値段は上がっている。
 都心の街にも、古い共同性はあったのであるマンションが建つと、おおむね若い人がやってくる。部屋に仏壇があるとも思えないから、白菊も相対的に必要がなくなってくるのである。
 街は激しい変化にさらされている。何年か前には、東京の最新のスポットとして恵比寿ガーデンプレイスが開発され、人がたくさん集まってきた。ビアホールにはいるのに、2時間待ちなどということがごく普通にあった。だが古典的ともいえたそのビアホールはなくなり、洒落たレストランやブティックに生まれ変わった。スポットたらんためにどんどん変化していき、街はいつも新しい顔をしていなければ、客が集まらなくなってきた。
 東京駅前に丸ビルが完成し、レストラン街やショッピングセンターが開店すると、ビルにはいりきれないほどに人が集まってくる。混雑ぶりを連日マスコミが煩り、足を運ばなければ時代に取り残されるような気分にさせる。
 やがて、六本木ヒルズができ、ブランド店が軒をならべる。レストランは高いという評判でも、なるべく早い時期に一回ぐらいはいってみようと、大勢が集まって身動きもっかなくなる。新しいものをどんどん消費するということは、新しかったものをたちまち古びさせ、捨て去ることである。
 欲望を刺激して新しい消費を生み出すのが、現代の経済である。新しい消費欲が、需要をつくる。新しい消費を生み出すことができなければ、もう古いのだ。新しいものが古びていく速度は、高速になってきた。欲望を刺激される人間は、ついに麻痺(まひ)し、ますます強くなっていく刺激を経済活動が破綻(はたん)するまでつづけていくのである。
 花屋の店先でさえ、見たこともない変わった花がならぶようになった。新しい種類による新しいディスプレーを競っている。そのような経済活動の中では、仏壇の花は人の欲望を刺激しないから、店頭から消えていくのだ。
聖教新聞2003年5月29日(木)

寛容の精神/世界の多様性を認めよう
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 現代社会で最も欠如しているのは、寛容ということである。寛容とは他者を他者として認めるという姿勢である。そのためには、自分の持っている世界観は大切であるにせよ、それが百パーセント絶対ではなく、他者の世界観を尊重し認めなければならない。
 今日の社会は、たとえばアメリカ型の自由主義が最善で絶対であって、この世界観を全世界の人々が共有しなければならないという、グローバリズムの一方的で激しい荒波に襲われているのだ。歴史も風土も違えば、当然世界観は違う。生き方も違ってくるはずである。どうして世界全体がアメリカ型自由主義の世界観のもと、政治体制も経済体制もみな同じようにして、その上で競争をしなければならないのか。それは最初から条件の違う争いということになり、アンフェアである。

 私はイラク戦争のことを思い描きつつ、本稿を書いているのであるが、その前に農業のことをほんの少し語りたい。広大な土地を持ち、強力な機械を有して、農薬についても肥料についても科学力を存分に使うことができる大規模農業がある。その一方で、山あいの狭い土地をなめるように耕し、山から湧いてくるわずかな水をも無駄にすまいと、細い水路を掘って田に導く。そのようにしか使えない土地があり、そのような方法をとらなければ荒廃していく土地もある。
 この両者が切り結ぶ一点は、悲しいことに価格ということなのだ。価格が安いほうが勝つというのが、グローバリズムの考え方だ。価格が安いほうが消費者を幸福にするという考え方を、今日本はアメリカやオーストラリアなど大農業国から押しつけられている。価格はそもそも、その土地によって違うのであって、その価格のもとに生産者と消費者の社会全体が成り立ち、その上で自然環境が守られている。このバランスが崩れ、休耕田ばかりになっていったら、山河は荒廃していく。十年後、五十年後、百年後の日本は、一体どうなるのか。今でいうクローバリズムの実態は、要するにコストのことである。コストは無駄をはぶいて下げなければならないが、それぞれ負っている条件が違うので、下げることのできる限度というものがある。今日の社会は、そのコストの問題で苦しんでいる。コストを維持することによって私たちの生活水準は保たれているのだが、そのコストを下げつづけていけば、生活水準どころではなく、山河も生活も破壊されていくのである。

 イラクの戦争も、大義名分はサタム・フセインの独裁政権打倒と、そのもとでの大量破壊兵器破棄ということであった。独裁政権はさまざまなマイナス要因を持っているというのは常識というものだが、そうだからといって外国の軍隊が攻め込んで結果的に大量の人々を殺戮(さつりく)し、街を破壊し、政権を倒してよいという論理が成立するだろうか。笑い話的に極端なたとえ話をすれば、今日の日本の金権選挙ほ本来の民主主義とはほど遠いからという理由で、正しいと自称する民主国家が軍隊によって攻めてくるようなものではないか。極論すぎるたとえ話ではある。金権政治は悪であるが、それを擁護する論理は一方で当然あるのだ。
 大量破壊兵器は悪だというが、それでは大量破壊兵器ではない兵器を大量に使うことは、悪ではないのか。一人を殺すことはもちろん悪であり、一人の命は重くて尊いのである。しかし、一万人を殺すことは、悪ではないのか。しかも、イラクの保有しているとされる大量破壊兵器を破壊するために、大量破壊兵器でない兵器を大量に使って攻め込んで独裁政権を倒したアメリカ軍とイギリス軍は、本稿を書き上げた二〇〇三年五月十日(土)現在で、いまだ大量破壊兵器を発見することができないでいる。このことの説明を私はまだ聞いていない。
 世界中で最も大量に大量破壊兵器を持っているのはアメリカだということは、誰でも知っている。アメリカの論理はこうだ。アメリカは正義の国であるから、原子爆弾だろうが水素爆弾だろうが、どんな大量破壊兵器を持っても正統である。問題は、邪悪な国が戦争の手段を持つことだ。
 世界は多榛なのである。その多様性を認める寛容の心を持たなくては、今後戦争の種はなくならないであろう。
 破壊しておいて、これから戦後復興である。復興の過程において、今度の戦争の意味が本当に問われるのであろう。
 「布施とは、貪(むさぼ)らないことである。貪らないとは、世にいうへつらわないことである」
 七百五十年も前に亡くなった道元の言葉である。布施とは欲望を実現させたり、自己に執着したりすることではなく、相手のためにただ施すことである。
援助というのは、援助する側の世界観を実現するためにされるのではない。相手のためのことしか考えないことだ。道元はその精神を説いているのだが、現代の私たちには困難な道ではある。
 根本は相手のことを認める寛容の精神からはじまらなければならない。
西日本新聞2003年5月11日(日)

足尾の森と『古事の森』
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 第八回を迎えた今年の足尾の植樹デーは四月二十七日であった。例年なら私は前日に足尾入りし、夜の交流会に参加するのだが、仕事の都合で前日に福岡に行かなければならなかった。
 東京から福岡へと日帰りし、新幹線で宇都宮に行くと、どうしても夜の九時にはなる。そこからタクシーで足尾に入るにしても、十時はすぎる。翌日は朝早くから植樹の準備をしなければならないので、全国から人が集まる夜の交流会も遅くまでやっていることはない。無理して足尾に入ってもただ寝るだけになる。
 宇都宮のホテルに一泊し、私は翌朝、宇都宮西ロータリークラブの出す大型バスに便乗して、植林地の足尾町大畑沢線の砂防ゾーンに向かった。途中、宇都宮短大付属高校インターアクトクラブの生徒と先生八名をピックアップする。宇都宮西ロータリークラブでは、今後、毎年「足尾に緑を育てる会」に寄付をしてくれ、植林にも参如してくれるとのことだ。ありがたいことである。

 「継続は力なり」
 八年間植林を続け、各種の補助金やら寄付金が集まり、樹林活動もずいぶん円滑になってきた。「継続は力なり」という言葉があるが、山も植林したところは明らかに緑になってきて植林の準備にもまごつくことはなくなり、人の力もごく自然に集まるようになってきたのである。
 今年の参加者は七百人で、四千本の苗木を植えた。活動資金はもとより士、肥料、苗木の現物提供をいただいた。昨年は郵政弘済会関東地方本部より軽ダンプトラックの提供をいただき、また国土交通省渡良瀬川河川事務所より植林地に物品倉庫を設置していただいて、活動がより円滑にできるようになった。
 今後は植樹をするだけではなく、土づくり、苗木づくりもしようというのが、会員たちの希望である。そのためには備品の充実も図っていかなければならない。
 今年の四月十日現在の体験植樹実施予定の団体は、五月八日、市貝中学校一年生を皮切りに、五、六月の会への申し込みは十九団体ある。足利ライオンズクラブ、関東一円の小中学校、県造園建設業協会、各労組などである。
 問題は、植林ができる場所の確保である。ハゲ山は広大なのだが、基盤整備をしたところでなくては足元が危険であるし、植えても土砂崩れで流れてしまう。植林はうまくいってはいるものの、会としてやらなければならないことが次から次に出てくるのである。2003年度計画

 ヒノキの大経木
 足尾での植林とともに、私はもう一つの森づくりを始めた。「古事の森」と名付けた森は、直径一。以上のヒノキの大径木をつくることを目的としている。日本文化は木造であり、神社仏閣や橋や城郭などの文化財修復用材の確保を目指し、既に樹齢百年のヒノキが生育する筑波山山ろくの国有林に、樹齢二百年以上のヒノキづくりを目指す。
 昨年京都の鞍馬山に古事の森第一号をつくり、第二号は筑波山となった。全国に十カ所程度の古事の森をつくる。筑波山での植樹は十一日午前十時四十五分から午後一時までで、続いて茨城県八郷町中央公民館でシンポジウムを行う。
下野新聞2003年5月2日(金)

田中正造の主張を今に/足尾に木を植える
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 栃木県の足尾は銅山のあったところで、鉱山開発の跡が今でもはっきりと焼きついている。足尾の歴史を知らないでその場所に立ったら、根底から荒れさびた光景に、ここは日本ではないと感じるかもしれない。
 樹木のない山が、渡良瀬川(わたらせがわ)の源流からその上流の松木渓谷に沿って、折り重なるように累々(るいるい)と続いている。まわりは錆びたような赤い岩肌のハゲ山である。
 真夏の日、私はこのあたりの山に登ったことがあるのだが、風化した岩が足元からぽろばろと崩れ、日差しの照り返しが強烈に下からあって、ここはサハラ砂漠ではないかと思ったほどであった。荒涼さと雄大さと、部分的にいえばサハラ砂漠にも負けない。
 なぜこんな光景になってしまったのであろうか。明治初年からはじまった鉱山開発は、大鉱脈が発見されると、富国強兵政策のための国家的な鉱山になっていた。たった1年ではあるが、銅の生産量が世界一になったことがある。日清・日露戦争への備えもあり、とにかく大増産を求められたのである。
 地下に坑道を掘り進めるためには、支柱や板が大量に必要である。精錬には木炭が使われていたから、これは大量の材木が必要である。近くの木のほうが運搬のコストがかからないため、どんどん伐っていった。いくら伐っても木材も木炭もいつも不足していた。
 精錬のかすをカラミという。地中から掘ってきた鉱石なのだが鉱物分の含有量が少なく、廃石にする分を、ズリという。このどちらにも生物には有害な重金属分が大量に含まれ、渡良瀬川の谷に拓かれた足尾の町に野積みにされていた。カラミやズリの上に家が建てられていったのである。
 無計画な伐採(ばつさい)のために森林は荒廃し、保水力はなくなり、雨のため鉄砲水がでる。水は高いところから低いところに流れ、一カ所に集中し、表土を削り、すさまじいエネルギーで流れ出していくのである。しかも、下流に流れていった土は、重金属分をたっぷりと含んでいる。
 佐野や足利の渡良瀬川中流域では、川の水を水田に引き込む農業をしていた。洪水が引いたあとの田んばには、山からきた腐葉土が10も20も積もっている。こうして一度水につかると、3年4年肥料いらずといわれた。
 だがその土は、汚染されていたのである。作物もできなくなり、無理してつくった麦を食べると、人の身体も重金属汚染された。水俣病と同じことだ。この土壌汚染は、日本ではじめての大規模公害であり、世に足尾鉱毒事件という。
 その後、精錬所は、技術革新があり、燃料は、木炭からコークスになって、亜硫酸ガスが出るようになった。この煙害によって、山の草さえも枯れた。後に山火事があり、現在のような土もないハゲ山の風景がつくられていったのである。
 足尾鉱毒事件に立ち上がった田中正造は、当時国会議員であったから、国会で何度も演説を行った。足尾銅山操業停止を訴え、渡良瀬川の源流域の保全を主張した。だが農民の側に立った田中正造の声は、明治政府の耳に届くことはなかった。田中正造の主張の中心は、この言葉に集約することができる。
 「治山治水」
 水を治めるためには、山を治めなければならない。しかし、渡良瀬川源流の足尾の山々には表土さえなく、したがって保水力はまったくない。雨が降るたび、かつては下流の村々を汚染された水が襲いかかったのである。
 田中正造がやり残したこと、すなわち足尾の山に木を植えるために、私たちはNPO法人「足尾に緑を育てる会」 (電話0288・93・2180 神山)をつくり、毎年植林活動をしている。多くの人に呼びかけ、苗や土を持ってきてもらっている。なにしろ岩山なので、士がなければ植林もできない。
 普通の山に戻すことが目的である。植える木は庭から持ってきてもらえばよい。足尾の山に適したのは、ミズナラ、ブナ、ウダイカンバ、アキグミ、コナラ、サルスベリ、グミ、ヤマハンノキ、ヒメヤシャブシ、ケヤキ、レンゲツツジ、ナツツバキ、ミズキ、リョウブ、ニセアカシア、サンショ、タラノメ、ウドなどである。もちろん主催者も苗を用意するから、身体ひとつできてもらってよい。
 4月27日午前9時に足尾町大畑沢緑の砂防ゾーン駐車場集合である。できるだけ多くの人に、参加を呼びかけたい。もちろん私もいく。
聖教新聞2003年4月24日(木)

地球/一滴の水の思い top
 鎌倉時代の禅僧道元は、一滴の水についてこのように語っている。
 「人がさとりを得るのは、水に月が宿るようなものです。月は濡れず、水も破れません。月は広く大きな光ですが、わずかの水に宿り、月全体も宇宙全体も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。(正法眠蔵」 『現成公案』の巷)」
 人間の能力であるさとりという全宇宙の真理を認識する力は、一滴の水の持っている力と同じだというのである。草の露や一滴の水は、月全体も宇宙全体も含んでしまう。しかも、その壮大なるものを内部に取り込んだとしても、水はそれで破れたり、動揺することはない。まったく平静だというのである。
 この文章は、水の力をまことに見事にいいあてていると思える。一滴の水こそ全宇宙なのである。一滴の水は球体なので、地球といいかえてもよい。
 もっといえば、草の霧や一滴の水とは、私たち自身のことなのである。私たちが全宇宙を認識したところで、姿形が変わるわけではない。これは小さな身しか持っていない私たちにとっては、生きる励ましとなっているといってもよい。
 もしその水が濁っていたなら、どんなに月を写そうと、その月は濁ってしまう。もしその水が風にでも吹かれて波立っているなら、月は歪んで揺れている。一滴であろうと、広大な海であろうと、水は澄んでいなげればならない。静澄な水にこそ、宇宙の深さが見えるのであろう。
 私は象徴的に書いたが、そもそも水はどんなところにあっても澄んでいなければならないのである。汚れていたのでは、飲むこともできないし、工業や農業のために使うことはできない。では水は誰が汚すのかといえば、もっばら人間である。自然が濁らせた水は、汚染されたとはいわない。
 水について考えるということは、自分たちの欲望のために地球を傷めつけてきた私たちの生き方について、問い直すということである。水が汚染されているのなら、水を飲まなければ生きられない私たちは、健康に生きていけないということである。水の面に私たちの生き方がそのまま写る。
 ここで立ち止まり、一滴の水に向かって心をこらしてみよう。全字宙を呑んでいる一滴であるから、それは宇宙を感じることでもある。一滴の水は、私たちの身と心であり、私たちのすべてだということができる。
第三回世界フォーラムに向けて
京都新聞2003年3月15日(土)

この国の未来に少々の不安
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環境問題を語る
 十数年前、バブル経済の真っ盛りの時代のことになるが、伊勢でボーイスカウトの大会があり、リーダーの高校生に向かって環境問題について語ってくれという依頼を受けた。高校生は日本人ばかりでなく、韓国人も中国人もいて、それぞれに同時通訳がはいるということだ。
 親しい人からの依頼でもあったので、私はそれを受けた。若い人に向かって今日の問題を話すのも、大人の役割であると思ったからでもあった。韓国や台湾の高校生たちに話すのも、私にとってはよい機会であった。
 その前日に伊勢にはいって泊まり、私は約束の会場にいった。100人余りのこぢんまりとした会場で、生徒はゆったりとした椅子(いす)にくつろいで座っている。学校などとは違う、立派な会場であった。前のほうの席には日本人の高校生が占めていた。やる気なのだなという気持ちを、私は受け取っていた。
 私は話しはじめた。すると、前方に座った子供たちは条件反射とでもいうかのように、眠りはじめたのであった。前方はほとんどが眠っているので、その眠りの層の向こう側の耳を傾けている少年少女に向かって、私は話すかたちになった。
 1時間半の話をするのに、私は慣れているつもりなので、普段そんなに疲れることはない。しかし、その時は本当に疲れた。だらしない顔で眠っていて、人の話を聞こうともしない若者たちに語りかけるのだから、虚しくないはずはない。それでも真ん中から後ろの子供たちは聞いてくれている様子だから、気分を立て直して話すことができたのだ。

手厳しい批判?
 約束の時間を話し終え、私はつまらない話をしてしまったと、申し訳ない気持ちでいっばいだった。最初から眠っているということは、聞くに耐えない話をしたということなのである。
 しかも、その眠り方が、顔を上に向けたり、口を開けたり、あまりにも堂々としている。講演中に眠って申し訳ないと感じられなかった。つまりその態度は、つまらない話をしている講演者への手厳しい批判なのだと、私としては感じたのである。
 私は悄然(しようぜん)として席を立ち、帰ろうとした。すると高校生たちがやってきて、英語で質問をされた。韓国の子供たちだった。次には台湾の子供たちからの質問を受ける。いつしか私は大勢の子供たちに囲まれ、あっちからもこっちからも矢継ぎ早の鋭い質問を浴びせられることになったのだ。
 私はていねいに回答した。子供たちの目が輝いていて、見るからに知識欲にあふれている。そんな若者たちと話すのは楽しい。日本人の子供たちが座っていた席に目をやると、もう誰もいない。
 空っぽの椅子だけがある。30分以上、私はその場から解放されなかった。私が去っていく背後では、英語でのディスカッションがはじまっていた。韓国と台湾の子供たちが真剣に対話を交わしていたのだ。
 その英語での対話の中に、日本人の子供もまじっていると、私は思いたかった。それにしても最前列で醜(みにく)く眠る姿をさらしている子供たちと、講演が終わってからも講演の内容に刺激されて生き生きと対話をつづける子供たちと、なんと大きな差なのだろうと私は思わないわけにはいかない。

疲れていようと
 日本は主催者側なのだから、リーダーは夜遅くまで働いていて寝不足なのかもしれない。そして、席は最初から決められているのかもしれない。私はあれやこれやと善意に解釈してみるのだが、どうしても納得できなかった。リーダーとはそもそもが苦しい立場なので、普通のポジションにいる人より睡眠時間が少ないのは当たり前だ。
 私は彼らに問うてみなかったので、真相はわからない。その時の私の位置から見るかぎりの印象では、学ぽうとする態度があまりに違いすぎる。どんな人間でも、もう学ばないでいいなどということは絶対にない。
 いくら疲れていようと、請(こ)われてわざわざ遠くからやってきた人の話は、膝を揃えて聞くというのが礼儀というものだろう。それができていないので、この国の未来について私は少々不安になった。
 あの子供たちは、そろそろ30歳である。社会の中核にはいっていく年代になった。今ごろ、どんな生き方をしているのだろうか。
 今日の日本は、過去の負債がうまく清算できず、なお未来の展望が見えない。
 この国の行く末を考える時、私は最前線にならんでいた子供たちの幸福そうな寝顔を思い浮かべるのである。私にとってはあれが不幸の予感であったのだ。
聖教新聞2003年2月27日(木)

21世紀の環境への提言/森をどう読み解くか
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 北海道の山に木を植えている人が、ある日興奮したおももちで私にいった。
「植えていた木が充分に大きくなると、川が生まれたんだよ。木が水を産むというのは正しいなと納得して、改めて生まれたばかりの川を見ると、底のほうに砂がたまっている。よくよく見ると、かつて川だったところに、水が甦ってきたということなんだ。自然を生みだしたのではなくて、甦らせたということなんだな」
 その人は古い土地台帳を引っぱりだしてきた。もちろんそのあたりはかつては原生林だったわけだが、森に開拓者がはいって木を伐採し、牧場にした。その牧場もいつしか荒廃し、後年その人はその牧場の跡地に木を植えつづけてきたというわけだ。その森が育ってきて、水が甦ってきたために、まるで新しく生まれたかのように川が流れはじめたということなのであった。
 これは北海道の阿寒の森で、実際に私が見聞したことである。森の世界に変転はあるのだが、虚栄やら嘘はまったくない。私たちは森にはいって、まずそのことに感動する。森に生えている木も草も苔も、虫も鳥も獣も、正しい姿そのままでそこに存在する。
 北海道の富良野にある東大北海道演習林で、森の木を育った分だけ伐って人と森とが共存する「林分施業法」を確立し、理想の森をつくり上げた愛称”どろ亀さん”、高橋延清(のぶゆき)先生の詩を、私は思い出す。高橋廷清先生は東京大学教授でありながら、いつも森の中にはいっていて、東京本郷の東大の教室では一度も講義をしたことのない先生として有名である。
森の世界


森には
何一つ無駄がない
植物も 動物も 微生物も
みんな つらなっている
一生懸命生きている


一種の生きものが
森を支配することの
ないように
神の定めた
調和の世界だ


森には
美もあり 愛もある
はげしい闘いもある
だが
ウソがない

 どろ亀さんの思想を、これだけはっきり語られると、そうだその通りだと、私などは深く納得してしまう。森は調和の世界で、それぞれの生きものが横に結び合って生きているのだと、地べたを這いまわって泥にまみれて生きてきたどろ亀さんは語る。たとえば菌類は、動植物の死骸や落葉を素早く分解して土に還し、肥料分として循環させる。そんなさまざまな生き物の活動の果てに、いろんな好条件がそろい運がよくて一本の大木が育つ。すると日影ができて、太陽を好む植物は生きるのが困難になるのだが、太陽を好まない植物もいる。羊歯(しだ)とか菌種で、これらのものにとって一本の大木は生きるための場所を与えてくれる人切な力をくれるということだ。
 一本の大きな木は、たくさんの落葉を降らせて栄養を振りまくし、小動物や鳥の巣を提供してくれる。数多くの寄生植物の生きる場所を与えてもくれる。調和の小に一つの役割が与えられているのであって、その一本の大きな木は人間が使うためだけにあるのではない。ところが人間は、その森全体さえも、自分たちが生きるために存在しているのだと考えがちだ。
 最近私は森や海や湿地や田んぼやいろんな自然を眺めてきて、その自然は選ばれた少数者のためだけにあるのではないと強く考えるようになつた。人間が使うためのみに、その森はあるのではない。森はそこに生きるすべての生命の調和した世界なのであって、もちろん人間もその中の一部でなければならない。
 食物連鎖のビラミッド構造がある。食物連鎖の最終段階に絶対的に存在するのは人間だが、人間の命を支えるために、数多くの生命が下積みの暮らしにあまんじているというのであろうか。人間は、また食物連鎖の最終段階に人間と同様に位置するクマやワシやタカは、食物連鎖の下位にあるものを当然のこととして踏みつけにする権利があるのだろうか。「激しい闘いもある」というとおりに、食べる食べられないの関係とは、それも「調和の世界」ということではないのだろうか。
 森のすべての生物は網の目のような入り組んだ関係で結びつけられていて、それはビラミッドを形づくるような上下の関係ではない。たとえてみればインターネット上のウエーブのような関係であって、優劣のない調和の世界なのだ。
 そうして見るならば、見上げるばかりの大木も、大木の根元に美しい傘をひろげているきのこも、まったく同等ということになる。生物の全体の世界から見れば、人間もただの一個の命なのである。
 ただ私たち人間は、私たちそのものである自我を通してしか自然を見ることができず、そこには欲望が色濃く散りばめられているから、自然の中心は私たちであると考えてしまうのである。自我から見るなら自分ほど尊いものはないのであるから、私たちは自分自身をピラミッドの頂点に位置づけてしまう。それはそもそも根拠もないし、尊大なことではないだろうか。
 「遍界曽(へんかいかつ)て蔵(かく)さず」
 若き道元が八百年前中国に修行にいき、まず無名の老僧に向けられた言葉である。森羅万象は昔からそのままの姿で何も隠していないのに、その真理がわからないのは悲しむべきであるという意味だ。目の前のすべての真理は何も隠されていないのに、その真理は手をのばせばつかむことができるにかかわらず、つかめないのが私たちなのである。
学校教育資料No222 2003年冬

わたしの先生/夢追う姿に勇気づけられ
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 わずか一年間の担任でも、生涯忘れえぬ恩師となることがある。立松さんにとって、それは宇都宮市立一条中学校で英語を習った簿井健郎さんだった。
 「『自分は外国で英語を生かして働きたい』という話をされたんです。今なら普通の話だけれど、当時は外国に行くなんて夢のまた夢。東京オリンピックの前ですから。子どもには信じられない話だった。でも、それから二十数年後、本当にケニアのナイロビで会ったんです」
 薄井さんは一九八一年から三年間、ナイロビ日本人学校の校長を務めた。たまたま消息を知った立松さんが航空郵便を出し、再会が実現した。
 「先生自身の生き方が、やっぱり胸に迫るものがあってね。長い時間かけて自分の夢を実現したことが、生徒としてもうれしいじゃないですか。せっかく英語を学んだのだから、それを使ってどんどん世界に向かって生きていきたい一そんな先生の気持ちは、中学生の僕らに鮮烈な印象で伝わりました。自分の生き方を見せてくれる先生はいい先生ですよ」
 「ナイロビのホテルでビールを飲みながら昔話をしました。僕がビール代を払おうとしたら怒られてね。永遠に、いくつになっても先生と生徒なんです。先生は職業だけれども、子どもには人生の師でもあるんだよね。勤務時間だけの顔じゃなく、人生をかけて向き合ってくる 一 そんな何かが薄井先生にはあった。たぶん、昔の先生はそういう傾向が強かったんじゃないですかね。お互いに体当たりするようなね」
 薄井さんは六〇年、新卒で同中学に着任。二年目に立松さんを受け持ったが、翌年には別の中学に去った。
 「僕らもさみしかったんですね。先生が言うには、みんなで文集を作って、僕が夜に自転車で汗をかきかき自宅に届けに来たんだって。その文集に僕は短編小説を書いたらしいんです。中学生の作文ですけど、先生は「お前の処女作だ」と。こっちはよくわからんですよ」
 その文集に立松さんはSF推理小説と童話をしたためていた。お別れの言葉ならぬ原稿用紙七枚にわたる「大作」を、薄井さんはいぶかしく思いつつも読み通し、すごく面白かった覚えがあるという。
 「僕らは五十五人の学級だったが、陰湿ないじめはなかった。高度経済成長の前だから、貧乏だったけど社会が伸びていく、そういう希望があった。薄井先生が外国で働くというのは、その象徴のようなもの。先生には、外国で働いて少しでも社会のためになりたいという意識がありました。それが子どもにとっては刺激的だった。今の時代と、その辺が根本的に違うのかもしれない。今は夢が持てない、その先がないというのかなあ、すごい閉塞感だよね」
 立松さんの在学当時、一条中は一学年が十七クラスもあった。いわゆる団塊の世代で、校舎も増築に次ぐ増築。廊下で授業を受ける生徒さえいたという。
 「師が、求める気持ちに呼応して現れてくれる時代が、いい時代だと思いますね。今の時代は求めるほうも教えるほうも、慢心していると思う。学ぶことなんて何もないと感じているのかもしれないが、学ぶことには限りがない。向上心や求道心などが、極端に希薄になった気がする」
 「今は日本の歴史の中でいちばん、若者が大切にされていない時代かもしれない。若い人にあるのは未来。でも、今の企業には展望がなくて、若い人を時間をかけて戦力にしていく余裕が見えない。既成の価値観がガラガラと崩れて、右肩上がりではない時代になってきたからこそ、逆に若者自身にとっては、自分の希望や夢がいちばん大事なんじゃないか。今ほど大切な時期はないと思うんです」
「わたしの先生」人生を変え、人生を支えた心の師(学事出版)

旅立ちの詩/正法眼蔵の「同事」のように人と同じく生き、死にたい
 「僕はねえ、ことさら自分の生や死を他の人と違うようにも思いたくないし、当たり前に生きて、当たり前に死ねればいいと思う」という立松さん。自らの人生のくくり方を語ってもらった。
 「普通に葬儀屋さんを呼んで、和尚さんを呼んで、戒名をつけてもらって、定められた死に装束を着る。僕は、そういう決まりきった弔い方でいいですねえ。死んでまで我を張りたくない。残された人に、その時できることを、気の済むようにやってもらえればいいよねえ。
 宇都宮に、おやじとおふくろのために造ったお墓があるんですけどね。そのへんにある筆で新聞紙に二回くらい練習して、僕が墓碑銘を書きました。普段からお墓参りもするし、ほんとかいなと思いながらも、うら盆経のしきたり通り、毎年、迎え盆や送り盆の儀式もしています。ただ、そのお墓が僕の入るお墓だというこだわりはない。僕の死後、家族が別にお墓造りたければそこに入ってもいいし、お墓はいらない、空からまいちゃえ、海にまいちゃえっていうんなら、それでもいい。
 人生はすべて因と果。普段の生き方がそのまま死に出るんですよ、悲しいくらいにね。だから、生きてる間は精いっばい生きますけど、死んだ後はお任せコースです」
 −お父さまはお亡くなりになる前に、戦時中の体験記を書き残されたそうですね。
 「物を書くというのは、ある意味、自分の死生観をつづる作業。僕は小説家だからね。死に際にあえて遺書をしたためるまでもなく、作品全部が遺書と言えば遺書ですよねえ。
 僕が生きようが死のうが、あくせくしようがしまいが、作品に力があれば残るし、力がなければたちまち消える。そういうもんだと思います。何か形見に残すと言っても、ろくなもんがないしね。物も家も名前も、いずれは消えざるをえないでしょう。消えないようにと苦慮すること自体が不自然だし、せんないこと。諸行無常にさらされて生きてるんだから、それに逆らおうとしてもしかたがないと思うんですねえ。
 道元の『正法眼蔵』の中に同事という言葉があります。人と同じように生活をして、人と同じように死んでいくのが尊いという考え方です。僕もそういう生き方、死に方ができたらいいですねえ」
 ー自分の人生の落としどころをどのように考えますか。
 「死は、人間がコントロールできない最大のもの。それをコントロールしようと思った時に、執着や矛盾が表れてくる。だから、死というものをいつでも素直に受け入れられる心構えがあったらいいねえ。
 この間、友だちの作家が死んだんだげどね。睡眠薬を飲み、ペンを持って書いてる格好して、凍死した。彼でさえ、死をコントロールしたわけではない。死を選んだというより、死へと追い詰められた。彼が選んだのは、せめてペンを持って死のうとしたこと。のたうちまわらない格好いい死に方だったとも言えるけれど、すごく悲しかったよね。
 僕も人生の折り返し地点は、もうとっくに過ぎました。あとは、どのくらいの傾斜なのかわからないけれど、坂を転げ落ちるだけだよね。これを書き切ってから死ぬべえと思ってる作品はあるけれど、必ず終わりはくる。いつか体力的に大作を書くのが無理になる日が来ても、せめてエツセーが書けるくらいの状態のまま、老化を止めておけたらいいねえ。
 大きい心で言えば、ボケたり、寝たきりになることも含めた同事かもしれません。そのうえで、死が近づいてきた時に、なるべくたじろがず、おたおたせず、普通にしていたい。あがいて、執着するのは苦しいでしょう。同事を生き、同事で死ねたら、どんなにかラクだろうねえ。
 人間、これでいいということはないから。死ぬ直前まで、自分の世界観を培う修行の場だと思うんだよねえ」
(文・國安ひろみ)
東京新聞2003年2月4日
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安全かつ確実な食糧の生産と供給のシステムを
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低下する自給率
 「昨年頃からガクッと元気がなくなったなあ。これからどうなるんだんべなあ」
 私の故郷の宇都宮で新年会をやっている時、農業をやっている友人が不安そっにふと言葉を洩らした。農業がここのところ急に元気がなくなったというのである。その一言で、未来がなんだか不安になってきた。
 私たちの国では、土を耕して食糧をつくることがまことに困難になってきた。農水省は食糧の自給率を上けるという目標を掲げたのだが、数字は落ちるばかりである。その食糧の自給ということだが、生乳を例にとる。
 牛乳は生鮮食品であり、そのままでは保存がきかないから、輸出入はできない。つまり100%か国産ということになる。しかし、牛の飼料は穀物も干草も多くを輸入に頼っている。
 過日、狂午病の原因とされてきた肉骨紛などは、外国から輸入されたものだ。その輸入飼料を食べた牛がだした牛乳は、国産ということになる。どうも納得がいかない部分がある。それでも自給率は下がりつづけているのである。
 農業が元気なくなってきたなと思うのは、休耕田が多いことでも実感できる。米の生産調整をするのは価格維持のためだが、価格を上げれば国際競争力が弱くなる。外では安い外国米があふれていて、国内では価格を上げるため生産調整し、その矛盾が修復できないところまできてしまったような気がする。

荒涼とした現場
 日本の農業を守るのは、文化の伝統からいっても、環境問題からいっても、また国の安全を維持するためにも、絶対に必要である。しかし農業の現場を見ると、あまりに荒涼としていることに暗澹(あんたん)としてくる。
 休耕田は減反政策によるものばかりではない。離農による耕作放棄地もある。また老齢になって耕せないのに、後継者がいないという田畑も多い。少し前まではその土地を借りて機械で耕作した若い農業者もいたのだが、使える力以上に離農がでる。
 耕すものはいなくなり、耕作放棄地として草が生えるままにしておく田畑が多くなった。雑草が繁るままになれば種がまわりの田畑にはいり、迷惑をかけることになる。
 耕作ができない土地にはコスモスなどを蒔くと、景観作物として補助金がもらえるのだが、ここには作物をつくっていないとわざわざ主張しているようなものである。道路際に咲くコスモスならいざ知らず、本来なら作物が実る畑に咲き乱れるコスモスが、美しい景観をつくっているとはとても思えない。
 先白も山形県のある村にいき、田んぽの道を歩いていて、大きな屋根の家があった。さぞかし立派な家だろうと思って近づいていくと、庭は草ぼうぼうで、閉め切った雨戸には板が打ちつけてあった。どのようなものか事情があって、村を捨てたのは明らかである。年老いた親が、都会暮らしの子供に引き取られていったのかもしれない。

都会の快楽生活
 テレビを点ければ、都会の快楽生活ばかりが映し出される。その生活をするためどんなに苦しい仕事をしているかまでは描かれず、田舎暮らしをする自分が取り残されているとしか思えなくなる。快発生活を求めて若者たちは都会へとでていき、若者の姿のない村には魅力はなく、離農する人がいよいよ増えていく。
 日本の農業を守らなければならない理由として、私たちは食の安全ということを主張の柱にしてきたのではなかったか。しかし連日報道されるのは、食品会社がブラジル産鶏肉を国産鶏肉と偽って販売したり、農業団体が茶の産地の偽装表示をしたり、農業者が生産を上げるために違法農薬を使ったり、食の信頼性を失わせることばかりだ。
 日本の農業生産物は安全だという、農業を守るための最大の理由を、農業者自らが壊しているのである。国産の食品は安全だと主張しようものなら、何倍もの反論が投げ返されてくる時代になってしまった。
私個人とすれば、信頼できる顔の見える農業者と手を組み、信頼できる流通団体とことなのだ。
 そうではあるのだが、ここのところ日本の農業がガクッと弱くなったと実感しないわけにはいかない。なんとこか立て直さなくてはならないのだ・・・・。
聖教新聞2002年1月30日(木)

北見のタマネギ畑から/都市住民に力を発揮してもらおう
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 知床あたりでは、畑の基盤整備によってその痕跡はずいぶん消えてしまったが、よくよく見ると水田をつくろうとしたことがわかる。
 米はつくることができた。今でもやろうと思えばできる。しかし、熱帯作物である米は低温に弱く、しばしば凶作にみまわれた。結局安定した収穫のある作物に米はとって換えられ、現在では小麦とジャガイモとビートの三作が栽培されている。
北見や女満別は知床から近いのであるが、今でも米がつくられている。夏の日照時間が日本でも最長だからである。それでも低温は克服することができず、水田でつくられているのははとんどモチ米だ。

自然を解読する
 自然の天候は毎年違う。今年は春に雨が降らず、k旱魃(かんばつ)の危険があった。しかも低温で日照時間が少なく、米は平年の半作であった。昔なら冷害であり、社会問題となるところだった。雨が降らずに乾燥したタマネギ畑には、スプリンクラーで懸命に水がまかれた。こうしてタマネギの作柄はようやくもち直したのであった。天候は毎年毎年違う。これが農業の難しいところである。肥料をどのように考えるのか、設計をしなければならない。作物に根を張らせるか、葉をひろげさせるか、背を高くするかで、肥料の組み立て方が変わる。農業者は天地自然を解読する、野の哲人でなければならない。自然に対して、繊細な感受性が求められる。
 さて、今年の北見地方はどうであったろうか。懸命の努力によって作柄はもち直し、夏の重要な作物であるタマネギは空前の豊作になった。するとやっかいなことに、今度は値崩れがはじまったのだ。このことが農業者を苦しめる。
 具体的な数字をあげよう。タマネギの市場価格の生産ラインはキロ七十五円から八十円ということなのだが、五十円まで落ち込んでしまった。赤字の畑になってしまったのだ。それなら働かないほうがましということになってしまう。これが農業にとっての大問題なのだ。
 価格維持のために全生産量のうちの六・八パーセントにあたる四万八千トンを、産地廃棄することになったのである。私がいった十月、北見のタマネギ畑ではあっちでもこっちでもトラクターが動きまわっていた。タマネギを収穫せず、畑の中に鋤(す)き込み、腐らせて肥料にしようというのである。農業の喜びは収穫なのに、経済活動という側面が強くでて、喜びを残惨に打ち砕く。国際競争の前では、感傷的なこともいってはいられないのだが、これをなんといったらよいのだろう。
 その日の新聞には、タマネギの値段がキロ五十円から五十五円になったと書かれていた。しかし、価格が上がったら、国際競争力が落ちるということである。この隙を縫って、外国から安いタマネギがどっとはいってくることはないのか。そうであるなら、産地廃棄はほんの一時の気休めで、やらないほうがいいということになってしまう。

生産の企画力
 そこで私は考えた。みんな一斉に同じ品種のタマネギをつくるのではなく、タマネギはタマネギでも多様な品種を展開したらどうなのだろうか。もちろんそうすると手間がかかるのだが、収穫もせず畑に鋤き込むよりましではないだろうか。
 農業全体に必要なのは、遮二無二の労働ではなく、計画である。商品生産の企画力である。そのために、都市で働いてきた人の力を借りたらどうだろうか。
 このはど私たちは都市住民が故郷で働くための「ふるさと回帰支援センター」という名のNPO法人を建ち上げた。不況下でリストラにあったり、停年で退職したサラリーマンが、もう一度人生を考えるために故郷に帰って思う存分腕をふるうことができないかという提案である。できたばかりの組織で充分に機能しているとはいえないのだが、今年こそ農村と都市との交流を真剣に考えてみたいと思うのである。
農業共済新聞2003年1月1週号

子供の記憶/ゴミの家庭内処理
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 私が子供の頃、よくよく考えてみるのだが、我が家にゴミ箱があったという記憶がどうしてもないのである。ゴミ箱はコンクリートでできていて、天井についている蓋を開けてゴミをいれる。ゴミをだすのは、前面についている木の蓋を上げ、チリ取りですくつた。もちろん箒(ほうき)も使った。
 市役所の人がリヤカーを引いてゴミを集めにきた。リヤカー一台で充分だったのである。私の家は食料品店で、通りに面したほうは店である。したがって、コンクリートのゴミ箱を置く空間はない。やはりゴミ箱はなかったのである。
そのかわり、父や母は庭でしょっ中焚火をしていた。燃やせるものは燃やし、野菜屑は近所で鶏を飼う人のところに持っていき、台所からどうしてもでるゴミは穴を掘って埋めていた。庭には茄子(なす)などを植えていたから、地味も肥える。よいことばかりだったはずである。
 燃えないのは、空壜か空缶である。板に打ってある釘も、焚火の灰の中に残る。それらは集めて、古物商に売った。
 それだけで、完全にゴミ処理ができた。考えてみれば、プラスナックのゴミがなかったのである。
リユース東埼玉資源環境組合2003年1月1日(水)